夜より遅く、朝より早く、あなたを







 セックスの最中、どこかから聞こえてくる音楽に耳を傾けていた。
 上の空だった訳ではない。しかし最中のことを思い出すと、頭の中でずっと流れる音楽があったのだと気づく。
 ピアノの音。クラシックには興味がない。
 誰の曲かも、どんな曲かも分からない。
 ただピアノの音だ。繰り返し変調する旋律が耳の中に残る。
 セックスそのものとは関わりがない。耳を掠める久遠の息とも、自分を鳴かせているこの快楽とも。
 だからきっと音楽とも認識していなかったのだ。
 組み上がる階段だ。
 踏む先から崩れ落ちてゆく階段の音楽だ。
 鍵盤を踏む。音が生まれ、崩れ、新たな鍵盤に移る。終わりは見えない。どこまでものぼってゆく。そういえばイッた瞬間を覚えていない。
 翌朝、久遠より早く目覚めた。
 朝と言うより、まだ夜と呼びたい。窓の外は暗い。明かりと言えば眼下に灯っている街灯程度で、どこもかしこも静まりかえっている。
 不動はリビングに立ち、窓からまだ眠る街を見下ろした。
 目覚める理由は特になかったはずだ。修学旅行に行っている冬花が帰ってくるのは週末。今日は木曜日の朝。いつものように彼女の帰宅を気にする必要はない。そもそも普段だったら泊まったりなどせず、帰るのだが。
 たっぷり眠ったという満足感があるとまではいかないが、随分きれいに目が覚めてしまったものだ。
 冷えたフローリング。冷たい足の裏。静かすぎて耳鳴りが聞こえる。
 キッチンで水を汲む。流しには昨夜の皿が片付けられないまま、水に浸かっていた。珍しいことだった。久遠は普段、こんな無精はしない。自分の情欲は隠さないにしても、律儀なほどに全てを済ませ服を脱いでからだ。
 水を飲んだコップをそこに浸そうとして、やめた。
 蛇口から水を落とす。刺すように冷たい。
 目は慣れていた。青い景色の中で細部まで驚くほどよく見えた。皿を洗い、食器乾燥機の中に並べて、自分でこんなことをしたことはほとんどない、と思った。
 使った皿を洗い、また次の日、同じ皿を使う。
 日常を繰り返すという活動は、サッカーの他では自分に馴染みのないものだった。
「サッカーと……」
 セックスの他、だろうか。
 久遠との関係が続いていることについて、不動はもう随分思考を棚上げしている。
 リビングに戻ってテレビをつけた。ほとんどの局がまだ放送を始めていない。一局だけ静止画の自然映像のままクラシックが流れている。
 ピアノと、ヴァイオリン。
 そして記憶は昨夜まで遡ったのだった。
 イッた時のことを覚えていない。そんなに悦かったのだろうか。
 いつもと同じと言えばいつもと同じ。久遠は無口で、息づかいさえたまに耳を掠める程度で、雄弁なのはのしかかる身体の重み。このまま抱き潰されたいと一度ならずとも思う。久遠の身体の重みは、今ではひどく安心する。
 テレビをつけっぱなしにしたまま、寝室へ戻った。久遠はまだ眠っている。不動がベッドを抜け出た時のままになっているから、うつぶせの裸の肩が剥き出しになっていた。
 不動は冷たくなった肩に顔を押しつけた。唇が冷たい皮膚と、固い筋肉を感じ取った。首筋からかぎ慣れた匂い。キスをすると、毛布の中からもぞもぞと腕が探る。ベッドに潜り込むと、目を瞑ったままの久遠の腕が抱き寄せた。
「寝てんじゃねーよ」
 腰を抱いたまま久遠の腕が安定してしまうので、耳元で囁く。
「…どうした」
 低い声が、眠いのだろう、ゆっくりと発音する。
 不動はずっしりと重い久遠の身体に手を滑らせた。何も着ていない。昨夜のままなのだ。
 腕の中から抜け出し、久遠の背の上に腹ばいに寝そべる。
 久遠がくぐもった声を漏らした。不動は上から相手の耳に息を吹きかける。口元ににやにや笑みを浮かべながら見下ろしていると、久遠の不満の声は溜息に変わり、息を吐ききった後で、可愛いことをするじゃないか、と呟いた。
「は? 馬鹿言うなし」
 頭を叩くと、ひそかに笑っているようだった。
「…ラジオか?」
「何が」
「音楽が、聞こえる」
 バッハか、と囁く。
「知らね」
「ああ、違う……」
 またゆっくりと息を吐き、身体がベッドに沈む。この状態で眠ってしまったのだろうか。神経の図太い奴め。
「しようぜ」
 息と共に囁きかけるが、効果がない。
「何を」
 目を瞑ったまま、面倒そうに答えられる。
 この状況でそれは少々カチンときたので、とっておきの掠れ声で囁いた。
「道也…」
 ピアノの音が、目覚める前の空気の匂いがひっくり返り、久遠の腕の下にいる。
「おはよう」
 満足感をもって久遠の頬に触れると、すっかり身体に馴染んだ重みが不動を抱きしめる。
「何か…言うことあるだろ」
 キスの合間に尋ねた。
「……可愛い奴だ」
 またふざけたことを、と噛みつくキスで唇を塞いでやった。



2011.3.15