背中に溶ける囁き







 シーツの隙間に穏やかな寝息が聞こえる。起きたらコーヒー。ポットの電源は、そう言えば昨夜抜いただろうか。待機電力だって馬鹿にはならないとそんな話をした…のは昨夜のことだろうか。
 昨夜のことでまず思い出せるのは、後ろから囁かれたということだ。言われた言葉も声も判然としないが、そう最初は耳に触れた息。こちらは余裕をなくしていたというのに乱れてもいなかった。それに対する腹立たしさが半分。余裕のある姿は好きだが、なんとかして自分の場所まで引き摺り下ろしたいと思った。耳の中に直接吹き込まれた吐息は意図的なものだったのか。思うよりも正直に反応して震える肩に久遠はすぐ気づいた。かすかな笑いが耳朶を掠め、それから彼は何と言ったのだろう。不動は完全に覚醒しきらないまどろみの中で昨夜の記憶に自分を漂わせた。
 風呂場の濡れたタイル。浴槽から立ち昇る湯気。ぬくもりとわずかな息苦しさ。背中に密着した久遠の体温と、濡れた皮膚の感触と、ああこれは首筋を撫でた髭。何かを言うたびにくすぐるように触れる。そんな些細な感触さえも熱を生み出して、うまく自分をコントロールできなかった。スレた演技は今更久遠には通用しない。彼は不動をよく観察しているし、不動自身が嫌になるほど不動のことを分かっている。だからせめて我を保持するためにも怒ったように対応してやるしかなかった。怒っても当然なようなことを言ったのだろうか、久遠は。
 腰を支えられる腕の強さに気が向いていて、そうだ、手だ。おそらく手を伸ばされて。感じないのかとか、そういう科白だったのか? でもまさか。彼はわざわざそんなことを聞かない。不動のことは十分に心得ている。セックスの最中だって久遠のスタイルは貫かれている。無駄なことは喋らない。行動で示す。だから言葉をかけるならよっぽど…、とそこまで思い出し不動は昨夜の自分と同化する。
 セックスするつもりじゃなかった。絶対という訳ではないが、それでもすぐにとは思っていなかった。だから自分は夕食を準備して待っていたのだし、ただ食べてほしくて風呂場に逃げ込んだのだ。自分の作った食事さえ食べてもらえれば、別に美味いとかどうとか感想だっていらなかったし目の前で褒めてもらうなんて浅ましくて。なのに久遠は自分を追って風呂までやってきて、しばらく戸を挟んで押し問答をしたのだ。
 結局、相手のことは浴室に入れてしまったわけだけど。
 だからこそセックスなどという流れになったのであって。
 展開こそ意外だったが、行為そのものに否定的なのではない。久遠とするそれは好きだ、まあ、結構。
 何だったのだろう。彼は何と言ったのか。耳に残っているのはあられもない自分の声だ。狭い浴室によく反響した。だから声を殺して歯をくいしばっていると、そうだ指が触れた。それを噛み切ってしまわないように口を開けた。指先に舌を押さえられ篭った声が漏れた。その時に、息が耳元に触れたのだ。久遠は何か囁こうとした。
 息の熱さは思い出せる。しかし何と言われたのか、その記憶は他の感触とごっちゃになってうまく再生されない。唾液にぬめった指が下におりてきて、急に触れられたので思わず振り向こうとした。見えたのは左目を覆う前髪だけ。どんな顔をしていたのだろう。あの時から急に息が荒くなって、それは耳の奥にしっかりと残っている。
 背中に密着した体温。腰を支える強い腕。それから思い出せない囁き。記憶の再生が終わる。不動は静かに瞼を開く。
 意外と部屋は暗かった。まだ早いのか、と腕だけ伸ばして携帯電話を取り上げる。液晶画面が明るくなりデジタルの時間表示が浮かび上がる。六時前。
 早い。でも少しだけ。起きたらコーヒー。朝食は昨日の雑穀米を温めなおして…ああ気合入りすぎだろ昨日の夕飯。半分はラップにくるんで冷蔵庫に入っている。じゃあコーヒーより緑茶。そんなことを携帯電話を握ったまま、暗い部屋に視線を投げかけて思う。
「風呂場だよ…」
 不動は呟いた。
 風呂場で、それでいつもだってしないような体位で。久遠が自分の部屋に来るとなれば夕食だけでは勿論終わらないとは自分も予想していたけれども、まさか風呂場とか。あんなに足開かされて。しかも後ろからとか好きじゃない。それなのに全部受け入れた。それはまだ背後で寝息を立てている男を自分が信じているから。多分もう心の底から信じている。好きだとか寝ていいとかを経て、随分なところまで来てしまった。
 不動は身体を起こし、隣で眠る久遠を見下ろした。
「あんたのせいだ」
 誰かのせいにするのは好きじゃない。甘えるのも。しかし不動はその両方の気持ちを抱いて呟いた。
「久遠」
 久遠久遠久遠、久遠道也。
 彼を中心に休日が回る。夜の電話やふとしたメール、日常の隙間隙間に久遠は存在していて自分を埋めている。愛情と信頼とセックス。ああ、なんて充実した一夜だったんだ。
 不動はそっとベッドを抜け出ると足音を忍ばせてキッチンに向かった。朝食、まずはそこから。ポットの電源は抜かれていた。湯を沸かしてまずは自分用のコーヒー。レンジであたためるだけの朝食も、湯気が立ち昇れば美味しそうに見える。窓の外が白み始め、不動は久遠の目覚めをコーヒーと一緒に待つ。彼が起きてドアを開け、キッチンに入ってくるのを。湯気の立つ朝食と緑茶。愛情と信頼。キスはその後で。



2010.12.28 yaya様主宰の絵茶を拝見しながら書いた物