Please catch my hand







 目覚めたのは夕方になってからで、携帯電話に表示される時刻やカーテン越しの光、ベッドの中のぬるい自分の身体に一層だるさを感じながら明王は寝返りをうった。
 朝一で病院に行き、点滴を打たれて帰宅したのが昼少し前。一晩分は十分に眠ってしまった。それでもすっきりはしない。身体を起こしても朝ほどの気持ちの悪さはなかったがやはり身体は重く、重力に逆らうのが苦痛だ。しかし眠り続けることはできない。
 引きこもりとかってさ、と特に考えもなく思う。いつトイレに行ってるんだろう。
 踏むフローリングの床が冷たいのも些かに不快で、戻す前にと部屋を出る。
 ひたひたと廊下を歩く。マンションの敷面積など大して広いものでもないはずなのに今日はトイレまでの道のりが遠い。歩いて、ドアを開けて、それからようやく便器と面会だ。ズボンを脱いで、パンツを脱いで……的を外さないだろうか?
 冗談も考えられる分、朝よりはマシだ。
 トイレから出て手を洗うと、冷たい水の流れに少し平常の思考を取り戻す。リビングを横切りベランダに出た。
 外は冷たく強い風が吹いている。平野を渡る北風。それとも林立するマンションのビル風だろうか。寒風は勢いよくモヒカンを乱す。明王は手すりにもたれかかったまま下の景色を眺めた。遠くから点景のように見えた人影は見慣れた人のそれだったが、時間を考えれば予想に外れたものだった。
 まだ日が沈んで少ししか経っていない。平野の果てはオレンジ色に照り、空が夜の気配を落とすには今少しの時間を要する。しかし久遠はスーパーの袋を提げてマンションに向かってくるのだ。いつもならこの時間、そんな姿を見せるのは冬花の筈なのに。
 頭の上から見知った人間を見下ろすのは滅多に見ないものだと思いながら、明王は久遠の頭に向かって手を振る。久遠は俯き加減に歩いていて気づいている筈もなかったが、不意に立ち止まると明王のいるベランダを見上げた。
 ベランダから下の通りまでどれほどの距離を離れているのだろう。
 ピッチの上から監督の彼を見る時、走っているのにその姿がはっきりと見えることがある。今もそんな視界が広がっていた。冷たい風がノイズを取り払い明澄な空気が見上げる久遠と自分の間にあった。
 久遠の表情はみるみる変わった。目が見開き、口が何かを叫びだしそうに歯を見せて開く。それから久遠は突然ダッシュするとマンションに飛び込んだ。ああ…、と思ったが明王はそこを動かなかった。
 しばらく待つと玄関のドアノブがガチャガチャとうるさい音を立て、久遠はFBIの突入のような勢いで部屋に飛び込んでくる。
 久遠は大股でリビングを横切り、靴下のまま冷たいコンクリートのベランダに降りて明王の両肩を掴んだ。
「風邪をひいているのに何をしている!」
「…気持ちが良かったんで」
「風邪をひいているんだぞ、お前は」
 選手としての自覚が足りん、と久遠は引き摺るように明王を部屋に入れた。その間ずっと手にはスーパーの袋を提げたままだった。
 久遠は明王をソファに座らせると額に触ろうとしてようやく手の袋に気づいたようだった。袋を床に置き、額や頬などすっかり冷たくなってしまった箇所に触れる。それから肩を掴んで一言低く、馬鹿め、と言った。溜息ほどの呟きだった。
「寝てばっかも気持ち悪ィ…」
「気持ちの悪いところに更に悪化させるやつがあるか」
 久遠はもう一度明王の額に触れたが、彼の手は冷たすぎた。乾いてがさついた手のひらが妙に懐かしかった。久遠はソファの隅に冬花が畳んでおいたフリースの膝掛けを開き明王の肩にかけた。
 明王が体温計を脇に挟んでいる間、久遠は台所に向かう。明王はソファに深く沈みこみ、伸ばした手でリモコンに触れるとテレビをつけた。夕方のニュースが始まっている。国会が始まったばかりだからそのニュースばかりだ。脂でてかった顔に絶え間なく焚かれるフラッシュが眩しい。
 瞼を閉じて首を反らす。耳は明王に興味のない単語を遠く響かせる。
「見ないのなら消せ」
 久遠の声がしてリモコンを取り上げたようだが、明王は手を浮かしてそれを制した。
「…聞いてる」
「通常国会のニュースを? 今喋ってる大臣の名前を言ってみろ」
「財前」
「それは総理だ」
 起きろ、と促されて目を開けると久遠がマグカップを差し出している。
「飲みなさい」
「あらあら、お優しい」
 茶化すと額を軽く小突かれた。マグの中はココアで真ん中に白い泡が浮いている。
「甘そう…」
「糖分を摂取していないだろう、しばらく」
 久遠にはそういう言い方しかできない。
 明王はくすくす笑いながらそれに口をつけた。思ったとおり甘い。どう考えても久遠のレシピではない。
「…冬花だろ」
 尋ねるとポケットに触るような仕草をしたので、手を出す。
「携帯貸せよ」
「…お前に見せる必要はない」
「病人の頼みを聞いてくれねー訳?」
 久遠は溜息をついた。
「言うことも聞かないくせに」
 久遠が遠目に見せてくれた画面には冬花のメール。買い物をするなら生姜を買っておいてほしいこと、それから明王をちゃんと甘やかすように書かれている。ココアの缶とマシュマロを仕舞った棚の位置。
 明王は画面を指でなぞった。
「冬花が帰ったら生姜湯か」
「そっちを楽しみにしろ。風邪に効くらしいぞ」
「なんだよ…拗ねてんのか?」
 明王は手の中のマグから甘いココアを一口飲み、久遠の首に手を伸ばす。
 そのまま引き寄せようとすると久遠が腕を突っ張って引き離した。
「…つれねーな」
「私に風邪を移すつもりか」
「嫌?」
 明王は見上げる。
「なんだその甘えた目は」
「せっかく俺からねだってんだぜ?」
「いつもだろう」
「固いこと言うなよ」
 もう一度キスをしようと試みるが、久遠は本気でそれに抗う。明王もムキになって両手で掴みかかった。
「観念しろよ、風邪くらい可愛いプレゼントじゃねーか」
「どこがだ」
 両手をがっきと組み合わせたまま攻防は続く。
「私まで風邪をひいたら冬花はどうなる」
「病人の世話が大変だってか? 冬花も罹れば仲良く一家心中だ」
「馬鹿言うな」
「死の味のキスとか…」
 急に力を抜くと、勢い余った久遠の身体がぐらつく。そこを抱き寄せ、ようやくキスに成功した。
「映画みたいな話だよな…」
 唇を離した明王は久遠の鼻先で笑顔を作ってみせた。久遠の眉間にはみるみる皺が寄る。
 明王は眉間の皺に触れたが、やがて未練を残しつつ久遠を解放した。
「…いいぜ、うがいしてこいよ」
「ありがたく、そうさせてもらおう」
 久遠は起き上がり廊下に消える。明王は溜息をついてソファに横になった。床に落ちていた体温計を指先で拾い上げ、再び脇に挟む。それから脱力した。
 フリースがソファと背中に挟まれてわだかまっている。肩か、裸足の足先にかけたかったが起きるのも面倒だった。病み上がりでさえないのにテンションを上げすぎた。
 軽い電子音がして脇から体温計を抜く。七度五分の微熱。軽く手の中に握る。
 うがいを終えた久遠が戻ってきて、それを手渡すとまた溜息をつかれた。しかしお前が外に出たせいだはしゃいだせいだとは言わず、フリースを肩にかけ、屈みこんで不動のあらわになった額にキスを一つ落とす。
 ただいま、と玄関から声が響いてくる。冬花だ。
「まあ、真っ暗」
 スイッチを入れる音。閉じた瞼の上が急に眩しくなる。
「ただいま、明王君」
 薄く瞼を開くともうそこに久遠の姿はない。
「今日はどうだった?」
「…寝てた」
「熱は?」
 冬花も枕元にしゃがみこみ、不動の額に触れる。額同士のぶつかりあう音が頭蓋骨の中に小さく響いた。
「まだ熱があるみたい」
 エアコンつけたばかりなのね、と冬花は肌寒い部屋の中でダウンジャケットを脱ぐと明王の肩にかけた。
 冬花はいつものように台所に向かわなかった。クッションに上に座り、テレビのチャンネルを夕方の情報番組に変える。
「…飯は?」
「今日はお父さんが作ってくれるのよ」
「作れんのかよ」
「私が包丁を握れるようになるまでご飯は全部お父さんが作ってたんだから」
 冬花は声をひそめる。
「それにお父さんが作ってくれるお粥は美味しいのよ」
「美味しいお粥…ねえ……」
「本当よ、すぐに分かる」
 エアコンのぬるい風が顔を撫でる。それに気づいて冬花が風向きを変えた。
「……早くよくなってね。みんな風邪ひいたら一家心中になっちゃう」
 明王は片目を開き、冬花に笑いかけた。
「悪くねえな」
 冬花は笑うだけで、ただ黙って明王の額を撫でた。



2011.2.1