ユメ、ゆめ、疑うなかれ
手元に何もない者ども、の話だ。 つまるところ夢を見ているのと同じことで、何を食べようが、何を飲もうが。どんな映画を観ようが、それが劇場でもテレビでも右隅にアナログと表示されたブラウン管でも構わない。セックスだって同様で、口を使おうが女の真似事をしようが同じことだと不動は思ったから、半ば強引に久遠のズボンを脱がせると上に跨ろうとする。 昼の内に一回。その後、畳の上でごろごろしながらノイズの走るテレビで長く退屈な映画を観て、食事の代わりに漬物を齧って茶を飲んで、それからもう一度セックスをして本気で腹が減って、二人裸で台所に立ったら久遠が自分だってろくに服を着ていないのに珍しく強い語調で不動を叱って、風呂場に押し込む。 乱暴に風呂場に閉じ込められるのは遠い記憶にあるような、それとも自分から隠れたのだろうか。昼間の光の消えない風呂場の白いタイルと青い浴槽にたまった湯の揺らぎを見ていると夢の中で夢を見ているような不思議な気持ちになった。 妊娠のないセックスの意味、という言葉が浮かんだけれどもそれ以上考える気は起きなくて、どうせ俺は永久に妊娠できないし、しないし、子どもなんかほしくないし、あいつだって同じだろうし、と指を伸ばし性行為の証拠にして残滓を掻き出せばごく単純な手指と粘膜への刺激に声が漏れて風呂場であんあん声を上げると久遠が顔を出し、はしたない、と言う。 何を今更。FFIも終わり、監督と選手という立場から解き放たれたというのに娘の目を盗んで自分は会いに来るし相手はマンションの鍵を開けるし、挙句生活に痕跡を残すのを怖れてビニールシートの上でやるセックスにも慣れるし、今湯船につかっているこの風呂場にそれはあるし、で。 夢幻の如くなりければ、不動は自分の優しさなど信じていないから、義務感とメリットを前面に押し出してビニールシートを洗い、これをベランダに干せば自分達のセックスの周期が分かるのだな、と久遠を呼んだ。久遠はビニールシートを干しに行く。もう、あたたかそうな服を着ている。 サッカーの話題しかないのに、サッカーの話をしない。飯を食って、テレビを眺める。娘は、と尋ねると、円堂と会っている、という。娘のデートにショックで自分は呼ばれたのだろうかと思っていると、当の娘が帰ってきた。 全く慌てることがなかった。誤魔化すことも。不動は風呂上りの格好だったけれども、帰り際には飯と風呂お世話になりました、とさえ挨拶をして帰る。娘は、今度は私がいる時に遊びに来てね、と言う。とうにバレているのかもしれない。 娘にバレたら、あいつは娘も社会的地位も失うのだろうか。そうやって孤立すればようやく同じ土俵だと思った。サッカー以外には、お互いしかいない、夢のような関係。まるで悪夢だ。不動は笑う。 ビルの谷間に夕焼けの強烈に残った橙色が残っているが、それも街を照らすことは出来ずに暗い影としてそびえる高層建築物が支えるのは冬の早い夜の気配と群青の空だ。交差点で不意に景色が拓けると、葉の落ちた街路樹が枝を細い指のように空に伸ばしていて、細かな枝の真っ黒なシルエットは悪魔の毛細血管のようにも見える。鳥の声が高く空をつんざく。 百舌だ。 高い泣き声。不動は首を巡らせる。こんな都会のどこにいるのだろう。すると夕焼けの強烈に残る橙色の西の空を背景に天に中指でも突き立てるような悪魔の細い爪の先に、生命の末期の痙攣があった。 どこかに置いてきた。忘れてきた。あいつはそうかもしれない。そうやって手の中のものをなくしたのかもしれない。じゃあ、娘だけは守れよ守ってやれよ娘だろお前の子どもだろお前が自分の子どもとして選んだ自分の娘なんだろ! 手ぶらと言えばまるで自由なようで聞こえのいいそれは、やはり不動にとってカラの手だし虚無だし、多分何かを持っている者から際限なく奪うか次元が違うから触れ得ないもので、だから久遠が自分とセックスまでするなら不動が彼を破滅させるまでは時間はない、自分の手の虚無からすれば造作もないことだと思われた。 不動は走って走って今自分が見ている景色がさっきまでぼんやりと歩いていた景色の逆再生を面白がる余裕もなくてエレベーターが一階に下りてくるのも待てなかったから階段を駆け上がり、冷たい空気が喉の奥まで乾燥させて自分の息が異様なほど熱くて肉体的な痛みが言語のように襲ってくる上に思考と混ざり始めたから、とにかく重要な一言だけを握り締め久遠の部屋のドアをガンガンと叩く。驚きを露わにした久遠がドアを開けて自分の名前を唇が形作ろうとした先に、ああでもあと一回くらいセックスとまではいかないけどキスくらいはしておきたかったなこいつのキス好きだったしとかいう欲望に引き摺られたせいか、握り締めていた一言は上手く口から出ず玄関先で嘔吐する。 自分の靴も汚れたが、丁寧にそろえられた久遠冬花の靴も汚してしまい、不動は最低だと心底思った。 久遠が玄関の吐瀉物を始末する間に不動は娘につれられてトイレに向かい、そこでもげーげー吐く。娘は大丈夫?大丈夫?とだけ繰り返してずっと不動の背中を撫でてくれる。えずきが止まったところで、待っててねと言い聞かせるように言われて便器にしがみつくようにして待っていると水のペットボトルとタオルを持って帰ってきた娘がそれでうがいをさせてくれて、顔を上げた不動の目元と口元を拭ってくれる。泣くほど吐いたのか。 ソファに横たえられ、久遠が宿舎に電話を入れるのをぼんやり聞きながら、とっとと愛媛に帰ればよかったとFFIが終わってから初めて思った。でも何だかんだであんなシケた町、と帰りたくなかったのが本音だったし、ここならサッカーができたし、何より久遠がいたのだ。今、娘が枕元でリンゴの皮を剥いている。 俺、お前の親父と寝てるんだけど、と言えば全部壊すことができる。走ってきたのはそういう取り返しのつかない破滅を避けるためだったが、こうして娘を目の前にしてみると自分の手で全部を壊してしまいたいという刹那的な思いが突き上げて、かつてあの男が潜水艦を沈めたのはこんな気分だったのだろうか、と思った。 泊まっていきなさい、と先生のような口調で久遠が言い、よかったわね、と娘が笑う。何が、何がよかったのだろう。娘はリンゴを薄く切り、食べれそう?と尋ねる。不動が首を振ると、その一つを指先につまみ、あーん、と言った。 あーん、って。 食いたくない、と顔を伏せる。娘はリンゴを皿に盛って、他にほしいものがあったら言ってね、お水もここよ、と言い残す。入れ替わりに久遠が枕元に座る。不動はクッションに顔を埋めたまま、握り締めすぎて行方が分からなくなりそうになっていた一言をようやく言った。 「別れようぜ」 久遠は黙って、何故か頭を撫でてくる。本気だと言ったら、そうだろう、と応える。お前が嘘を吐くことはないから、と静かな声が言う。しかし別れない、と言うので馬鹿じゃないかと言い返したら、それは認めるという力ない返事だった。 お前が私を嫌いになったと言うなら仕方ない、しかしお前は今日もそんなことは言わなかったし私もお前を気に入っている。お前が恐怖を感じてそんなことを言っているなら、私は自分からカムアウトしていいしその心積もりだ。 「あんた、娘のことが大事じゃねえのかよ」 「お前を天秤にかけたりはしない」 不動は口が開いてしまった。久遠は続ける。お前を何かと比較するつもりはない。これまでもそれをしなかったつもりだ。比べてマシだからという理由で選んだことはない。 じゃあ何で、と震える声で尋ねる自分は汚いと不動は思う。打算に満ち溢れている。 しかし久遠は断言する。 「お前が不動明王だからだ」 ずっと、その言葉だけを待っていた。 それさえあればセックスもいらなかった。カラの手ではない。それだけで生きていける。だから本当に久遠と別れても生きていける。ああ、本当に別れられると思うと涙が出てきて、別れる辛さがマグマのように胃の奥からせり上がり、気配を察した久遠に抱えられてまたトイレに向かう。 水を持ってきてくれたのはやはり娘で、今度顔を拭ってくれたのは隣にいた久遠だった。 もう眠った方がいいかもね、と和室に布団を敷く娘はおそらくここで昼間セックスが行われたことを知らないはずで、それを考えると不動は早速横になったのにまた息苦しくなるが、枕元にスポーツ飲料を置いた娘が自分の顔を覗き込み、ちゃんと呼んでよ、とちょっと叱るような顔をするので、え?、と思う。 無理せず呼んでね。私もお父さんもすぐそばにいるんだから、一人で我慢したら駄目よ。 あのさ…、と不動は声をかける。 「怒んねーの?」 「怒ってるじゃない、今。怒ってるのよ」 「あのよ」 言いかけたまま黙っていると、何、と自分のあのよくらいに小さな秘密めかした声。 「キスしてくれよ」 すると物凄い勢いで両手が伸びてきて自分の顔を塞ぎ窒息させられるのか調子に乗りすぎたと思ったら、手の暗闇の向こうからこんな言葉が聞こえる。 「今日は駄目」 あたたかな手が離れる前に手首を掴むと、一瞬びくりと震える。不動は手の闇の中から、嘘だよ悪かったなと言い、ありがとうよとぼそぼそ付け加える。体温がふわりと近づいてきて、許さないんだから、かわりに私の言うことはちゃんときいてください、とどうやら脅迫らしい言葉。遠慮せずにスポーツ飲料は飲む、苦しい時は呼ぶ、無理して起きない、と約束させられた。 手首を離すと、急に寒くなった。部屋を出ようとする冬花に、本当に迷惑じゃねーのかよ、と言ったら、信じないと怒りますよ、と娘の返事。やっぱりさっきのは怒っていなかったようだ。 襖を開けた久遠が自分は隣で寝ている、と言う。隣はリビングだからソファの上で眠るのだろう。そもそもこの和室は久遠の部屋なのだ。不動はやはり、あのさ、と声をかけ次の言葉を続けることができなくて黙っていると、久遠が近づいてきて、安心して眠りなさい、と言う。 いつか聞いた言葉のような気もした。 眠って次の朝始まるのが本当に新しい朝なのか、手に何も持たない朝へ逆戻りするのか、闇の中で不動は視線を漂わせ天井に向かって伸ばした自分の手を見ようとする。 何もない。 夢なのだろうか。 肩を出して眠ってしまったせいで、本格的に風邪を引いたらしくそれからしばらく不動は久遠のマンションに厄介になりっぱなしになる。 昼間、誰もいないリビングでベランダを背に一人座っていると、手の中にあたたかいだけの無垢な光が落ちる。 これは誰の物語だろうか、と不動明王は考えている。
2010.11.10
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