needful things







 携帯電話に着信がある。並ぶ九つの数字。登録はしていない。形に残して期待をしたくない。しかし、その番号を覚えてしまっている。
 通話ボタンを押しても、特に挨拶もなく都合を聞かれることもない。必要なのは待ち合わせの場所と時間。液晶画面を見ると、通話時間は十秒にも満たなかった。それでも充分なのだと思う。
 本格的な冬の匂いと、気の早い所ではクリスマスのディスプレイ。街中の賑やかさは逆に不動の心を虚ろにする。足早に駅へ向かう。
 客がいなくて待ちぼうけ気味に列を成すタクシーを横目に、改札へ。切符は八百六十円で、どこか行ける所まで。ホームには久遠が待っている。妙に薄着で、見ているこっちが寒かった。穏やかな眼差しが見下ろしてマフラーを暖かそうだと言う。
「寒ィよ」
 そう言うと、大きな手のひらが自分の手を包み込む。
 電車の中で携帯電話の電源を切ると、ボックス席の向かいに座る久遠は道徳的な何かを量る目で不動を見た。不動は唇の端を歪める。
「邪魔されたくねえだけ」
 倫理もマナーも関係のない行為だ。
 久遠も自分の携帯電話を取り出し、電源を切る。
「あんたは?」
「当ててみろ」
 会話は決して胸の中まで触れない。指の先で水面を弾くように、表面だけを掠める。
 暗く曇った車窓の景色は、時々冷たい雨に濡れた。利きすぎた暖房が苦しく、窓に額を当てる。久遠の手が伸びて、首筋からマフラーを取り去った。不動は溜息をついた。
 しとしとと雨の降る駅に降りた。古い木造の駅舎は暗く、天井の蛍光灯もくすんでいて実際よりも遅い時間に感じる。まだ夕方にもならない。
 目の前にはただ道路。国道の標識は立っているが、轍がへこんでさえいる古いアスファルトの道がただ東西に伸びている。他には何もない。枯れた草の原。雨に打たれる音にかすかにざわめている。
 久遠はマフラーを自分の首に巻いた。吐く息は白い。
 次に行きたい場所は決まっていない。八百六十円、その後のこと。傘立てから安そうなビニール傘を拝借し、二人で宿る。傘を持つのは久遠。不動は手を繋がない。
 久遠は傘を傾けなかったので、二人の肩は平等に濡れた。すっかり掠れた白線を挟んで歩く。時々風が吹くと、枯れ草に乗った水滴が飛ばされて頬にかかる。冷たく、清々しく、これが現実だと教えてくれる。
「何で、また来たの」
 不動は尋ねた。
「今度こそ、誘拐?」
 久遠は黙って不動の方に傘を傾けた。
 不意に込み上げた感情は意味が分からなかったが、怒りにも似た激しさだった。相手の手から傘を弾き飛ばし、爪先立ちに正面から飛びついて、伸ばした手で顔を捕まえて。それでもキスには距離が足りなかったので、久遠の腕の助けが要った。抱き寄せてくれる腕と、わずかに屈められた背が。
 マフラーが邪魔。身長差が障害でもどかしい。爪先を蹴ると、久遠の身体がぐらついた。だから両足を地面から離して全体重をかけた。
 重力が消える。音が消える。灰色の景色が傾ぐ。
 じんわりと耳に雨音が蘇る。濡れた枯れ草が頬を刺す。それをわずらわしく片目を細めると久遠の手が伸びて頬を包み込んだ。
 枯れた草原に沈むようにキスをすると、時間を忘れた。
 頭から九桁の数字が消えてゆく。もう必要ない。携帯電話も何もかも。でも本当にそうなるためには不動には言うべき言葉があって、でもそんな言葉は不動は死んでも言いたくはない。
 一緒にいてほしい。
 手を離さないでほしい。
 どこにも行かないでほしい。
 馬乗りになったまま、倒れた久遠を見下ろす。不真面目な顔なぞ見たことがないのに、ひどく真面目な顔をしていると思った。目が怖いとさえ思った。
 不動はマフラーの両端を掴み、震える息を吐いた。白い息。冷たい雨が背から染み込む。首筋を流れ落ちる。熱を持った唇の上をひやりと滑る。
 きっと、殺せる。殺せてしまう。
 嘘でも冗談でもなく、このマフラーを強く絞めれば久遠は抗わない。
 今までに感じたことのないほど確信できる未来だった。そして、その先の自分はない。多分、何もかも失うだろう。
 違う、何も欲しくなくなるのだ。
 今この瞬間は幸福では決してないはずなのに、不幸だと思わなかった。ただ久遠が自分を受け入れているという現実が不動の手には余り、喉が詰まった。
「何で…黙ってるんだよ…」
 不動は声を絞り出す。
「あんた、俺を殺す気かよ」
 怖いほどの視線が真っ直ぐ射抜く。
 そっと大きな手のひらがマフラーを握り締める手に添えられる。途端に電気の走ったように手が震えた。がたがたと、その手は震えた。コントロールできない。
 濡れたマフラーがずるりと手から滑り落ちる。久遠が強く手を繋ぎ合わせる。
 助けて、と叫びだしそうだった。
 泣くための方法が分からない。どうすれば涙が流れるのか。
 久遠の上にゆっくりと倒れこむ。触れた部分だけ熱い。雨の音は止まない。灰色の景色は柔らかに滲む。死にたい気分は、多分これじゃないかと思った。


 耳を澄ますと雨音も聞こえたが隣の部屋の嬌声も聞こえてきた。しかし不動は全く構っていないようで、ベッドの上に横たわったまま赤く腫れた目をぼんやりとさせている。久遠はその脇に腰かけた。
 不動はついさっきまでバスルームで泣いていた。熱いシャワーに打たれながら蹲り嗚咽を漏らしていた。丸まった背中が実際以上に小さく見え、久遠は自分の服を脱ぐのも忘れてその隣に屈み込み不動の顔を覗いた。不動は泣き声を漏らしても決して顔を見せようとしなかった。しかし軽く抱き寄せる手には抗わず、頭を撫でられながらいつまでも泣いた。
 壁紙の柄が不必要なほど明るく、その分建物の古さが浮き彫りになっているようなホテルだった。天井が鏡張りになっているが、それも何かペラペラした安物なのか、見上げる久遠の顔も横になった不動の裸体もピンク色の照明の中にくすんで映った。
 ベッドサイドで照明を調節できないかスイッチを適当にいじる。不意に照明が消え、今まで異様な色の視界に占められていた目が混濁とした暗がりを映し出す。
「さっきので、いい」
 暗がりの中から不動が掠れた声を出した。
「顔見てえから」
 もう一度スイッチを押すと、また部屋全体がいかがわしい色に染まる。だがベッドの上からは安心したような溜息が聞こえた。
 手を伸ばして不動の膝に触れると、そこはさっき湯で温まったはずなのに、もう表面が冷えかけていた。エアコンを入れていないからだ。部屋は静かに寒かった。そう感じなかったのは自分がバスローブを着ているせいか、それとも照明の色による錯覚だろうか。
 引き寄せると、膝が曲がる。膝小僧の上にキスをし、軽く目を瞑った。
「何してんの」
 不動が手を伸ばす。
「顔見えねえだろ」
 指が髪に触れる。耳の真上でさりさりと音がする。
「不動」
「何」
「明王」
「………」
 名を呼ばれた不動は返事をしなかった。
 久遠は足を持ち上げ、すべすべとした臑を撫でる。脹脛の筋肉をなぞり、この足が、とFFIの日々を思い出した。キスを足の甲から指先まで落とすと声にならない息が耳を掠める。不動の指先は空を掻く。
「…顔、見せろよ」
 顔を上げると、力なく横たわる中から視線だけが久遠に追い縋った。久遠はベッドの上に乗り上がり半身、不動の上に覆い被さる。
「どうした、明王」
「…やめろ」
「お前が顔を見せろと言ったんだ、明王」
「だからそれやめろって」
「名前を呼ばれるのがそんなの怖いのか?」
 不動は顔を背け、目を閉じる。
 瞼が震えていた。瞼の下で眼球が迷うように動くのを久遠は想像した。
 半身を起こし、再び不動の足に触れる。立てられた片膝を撫で、今度は骨を確認しながら指を滑らせた。足の甲。爪を切り揃えた指。軽く持ち上げ、足の裏を見る。
 不動が蹴る真似をしたので、足の裏は久遠の顔面に押しつけられた。感触で気づいていたはずだが、それでも構わず不動は足にぐいぐいと力を入れた。
 足首を掴んで持ち上げる。不動は晒されるような格好で足を開いている。久遠は膝の裏にキスをした。それから太腿へ。筋肉に震えが走る。この先のことを予想している。久遠はその期待には応えず、不動の足を下ろした。
「お前が好きだ」
 そう、言った。
 出し抜けなタイミングだとは分かっていた。しかし今言うよりなかった。今まで感じてきたことを今新たに感じ、それが言葉になったからだ。またあてどもなく電車に乗り雨の中を歩き辿り着いた場所だからこそ、もうそれは言われなければならなかった。
 不動が息を止めるのが分かった。部屋の中の何もかもが音をなくし、また隣の部屋から嬌声が聞こえた。それを包み込むように、遠い雨音。
 久遠は少年の足を撫でた。
「お前の身体もだ。私はお前を大切にしたいと思っている。傷つけられることのないようにしたい」
 不動は身体をよじってベッドから逃げようとした。久遠はその身体を押さえ込み、耳元に囁いた。
「守りたいと思う。これはもう欲求だ」
「言ってることと、今してることが逆だろうが!」
「守られるのは怖いか、明王。名前を呼ばれ、大切にされることが」
 組み伏せられた身体がぐっと抗う。だが久遠はその身体を抱き締め、ベッドの上に押し潰した。くぐもった声が離せと叫び、手がバスローブの上から背中を引っ掻く。
「そんなモンをくれなんて誰も頼んでねえんだよ!」
「では何故、私の首を絞めようとした?」
「気に入らねえんだよ、てめえが!」
「何故できなかったんだ?」
「うるせえ!」
 不動は暴れ、久遠の身体やベッドや壁を闇雲に叩いた。
「やめろ」
 引き攣った声が言った。
 やめろ、やめろ、やめろやめろやめろ…。不動は繰り返し、久遠の背中を叩く。久遠は黙ってその身体を抱き締めた。
「泣いたことを悔いなくていい」
 徐々に力をなくす不動に、久遠は囁き続ける。
「お前が甘えない人間なのは知っている。四六時中素直でいろなどとは言わん。だが、その痛みを自分一人で耐えなくてもいい。私はお前の力になりたい。お前が好きだからだ。綺麗ごとに聞こえるか? 実際もっと勝手な思いだ。私はお前が欲しい。お前を手に入れたい」
 苦しそうな手が頬を引っ掻いた。久遠は抱き締めていた手を緩め、腕の下の不動を見下ろした。
「…見るな……」
 不動は泣きながら手を伸ばし、むずがる子供のように懸命に久遠の目から逃れようとしていた。震える手指は思い通りに動かず、久遠の顔に触れては追い払うように引っ掻く。
「明王」
 囁いた途端、不動の口は大きく広がり吸い込んだ息が泣き声の最初の一声になった。
「明王…」
 手を取ると、淫靡な色の照明の下に最早ぐしゃぐしゃになった不動の泣き顔があった。その泣き顔を隠してやるために、久遠は不動を胸に抱き寄せた。好きだと囁くと、握られた拳が力なく背中を叩いた。
 天井には少年の身体を抱いた自分の姿が映っている。鏡像はくすんでいたが、腕の中の不動は現実のものでまだかすかに泣いている。
 隣の部屋の嬌声はやんで雨音が一際強くなったのが聞こえた。と思ったらそれは天井から聞こえるから、どうも上の部屋のシャワーの音らしく、久遠は何故か可笑しくなった。


 目覚めると聞き馴染みのない音がする。不動は瞼を開け、照明がただのダウンライトになっているのに気づいた。広いベッドの足元に久遠が胡坐をかいて座っていて、不動の服にドライヤーをかけていた。
「もう起きたのか?」
「今…何時……」
 言いながらもそもそと体勢を変えベッドサイドの時計を見る。
「一時間くらいしか眠っていない」
 とは言え、時刻は夕方と言うより夜に近い。
「乾いた?」
 喉がガラガラで不動は自分でも驚く。出た声はまるで自分のものではないようだ。
「もう少し布団にもぐってろ。風邪を引く」
 言われるままにベッドにもぐりこみ、服を乾かすドライヤーの音を聞いていた。結局、セックスをしなかったと思った。久遠は職人のような目つきでドライヤーをかけている。おそらく、今誘っても駄目だろう。
 したかった、と残念に思った。
 なんとか乾いた服で外に出る。雨は上がって、曇り空が時間の割りに妙に明るく見える。二人は元来た道を戻らず、どんどん先に進んだ。町までは一駅だった。ここに来るまで虚ろに見えた町の明かりが、今は不動の胸をほっとさせた。
 久遠は何も言わずスポーツ用品店に入る。不動も続いて入り、入り口付近でバーゲンにされている各国代表のレプリカユニフォームを眺める。赤いユニフォームが目について、何となく笑った。
「行くぞ」
 肩を叩かれる。久遠がサッカーボールを小脇に抱えている。
「欲しいのか」
「まさか」
 何故サッカーボールなのか理由を聞かないまま歩いていたら、あっと言う間に駅に着いてしまった。小さな町だと思う。まあ、ありがちな町だ。
 切符の販売機の前で久遠は手を止めた。彼は路線図を見上げ、明王、と呼んだ。不動は悩んだ末、小さな声で何だよと返した。
 久遠は何かを言いたそうに不動を見下ろした。しかし結果浮かんだのは微笑みだけで、彼は自分の分を空港に近い駅までの切符を買った。
 この時間、小さな駅には帰ってくる人間の方が多く列車から降りた人の波が過ぎた後はホームには二人だけになった。
「明王」
 久遠が軽くサッカーボールを蹴る。不動はそれを足で止め、後ろ歩きに距離をとる久遠を何事かと見た。
「よし来い」
「何やってんだよ」
 と言いつつも不動はボールを蹴る。ホームにはボールの跳ねる音が響く。
「今日こそは誘拐をしようと思ったが、やめた」
「意気地がねえなあ」
「が、お前に言いたいことを言うことはできた」
「……」
「まだ伝えるべきことが残っている」
「…何ですか」
「私はお前を欲しいと言った。続きがある」
「……」
「お前を私の人生に組み込んで、自分の一部にしてしまいたいと思っているんだ、私は」
 久遠はボールを止めると、強く蹴った。
「中学を卒業したら、明王、東京に来て私と暮らさないか?」
 胸トラップ。足元に落ちたボールを押さえつける。
「…で?」
 軽く蹴る。
「結婚しようと言いたいところだが、私の子供になれ」
 勝手な思い。人生に組み込む。自分の一部に。
 結婚。
 子供。
「他に言い方はねえのかよ!」
 強く蹴り返す。
 久遠はそれを易々と受け取り、珍しくリフティングしてみせた。
「人生最初のプロポーズだ。考え抜いた末に言っている」
「馬ッ鹿じゃねえの!」
「顔が赤いぞ」
 飛んできたボールを上手く捉えることができず、両手でキャッチしてしてしまった。
「…恥ずかしいことしてんじゃねえよ」
 ボールを抱えたまま不動はしゃがみこんだ。両手で顔を覆う。空気が冷たくて気持ちいいほど、耳まで熱が上がっていた。
 足音が近づいてくる。
「それは持っていろ。お前のはもうボロボロだろう」
 久遠は隣に佇むとしばらく沈黙し、もう一言付け加えた。
「返すなよ」
 それを聞いた瞬間、不動はいよいよこの男のしていることが信じられず、馬ッ鹿じゃねえの、と呟いたがそれは喉の奥からせり上がってくる熱で上手く言えなかった。そして、恥ずかしくて恥ずかしくて堪らなかったが、それを突っ返すことはしなかった。
「…返事は?」
 向こうから電車のやって来る音がする。不動は立ち上がったが顔を上げることができなかった。久遠が促すように、明王、と呼ぶので、うるせえ考えさせろ返すか馬鹿野郎!と一息に言って相手の肩に頭突きをした。


 先に電車を降りた。久遠は、また連絡する、と立ち上がった自分を見た。それっきり久遠は自分に視線をやらなかったが、不動はホームで夜の向こうに去っていく電車を見送った。
 降車した人々はぞろぞろと改札を目指して歩いてゆく。一人残された不動に、電車の過ぎ去った方向から冷たい風が吹きつけた。マフラーはとうとう久遠が持っていってしまった。ボールを持たない手をポケットに突っ込むと電源を切ったままの携帯電話が触った。不動はそれを取り出した。
 着信履歴に九桁の数字。
 久遠道也、と登録してまたポケットに突っ込み、不動は改札に向かった。



2010.10.5