unknown people







 暗い車窓に傾けた自分の首が映っている。
 海辺をずっと走っていたはずが線路は急にトンネルに飲み込まれ、気がつくと小さな無人駅に停まった。
「降りるぞ」
 暗い声で久遠が言い、不動はそれに従って席を立った。
 駅舎もない。コンクリートのホームの端に小さな銀色のポストのようなものがあって、そこに切符を入れた。看板は赤く錆びついていた。駅の名前は分からない。
 久遠は先に立って歩き出す。不動はホーム脇の同じく錆びついた絵地図を見た。駅は岬の付け根にあたるようだった。突端には線路は走っていない。そこへ向かいたければ車を使うか、徒歩だ。
 付近には民家もない。森と言うより、山の中だった。道は蛇行し、傾斜のまちまちな坂が連続した。街灯の類は一切なく、両脇に植林された杉の林から苔や緑の匂いと、夜の虫の声がした。
 どこまで行くのかと不動は尋ねない。久遠の少し後ろをついて歩く。彼がわずかに手を伸ばせばそれを掴める距離。あるいは不動が手を伸ばせば、その袖を掴むことができる距離。
 正午過ぎのこと。毎日サッカー浸けだった先の季節の余韻が去らぬ午後だった。強く、冷たい風が校舎の窓を打った。空は曇っていた。FFIの日々の他、不動は人生のほとんどを故郷のこの地で過ごしてきたはずなのに、記憶の空はいつも曇っている。その時も、まるでそのままの景色だった。
 授業を抜け出し市街地をうろついていると、愛媛で出会うはずもない男に出会った。不動は一瞬だけ動揺した。目の前の男は驚く様子もなく、しかし久々の再会の言葉も口にしなかった。ただ不動が耳に空けたピアスの穴をじっと見ただけだ。
 強制された訳でもなかった。かと言って久遠の後を勝手に追いかけた訳でもなく、二人の意志で連れ立って歩いた。行き先は最初から『どこか』で『どこまででも』。エニウェア・バット・ヒア。常に。
 歩き続けるのが当たり前のように二人は歩き続けた。会話はなかった。二人の共通項はサッカーだけだった。それも互いに監督と選手という立場ではなくなった今では希薄なもので、また思い出話をするような性格でもない。
 急に二人の前に影ができた。背後からヘッドライトの光が強烈に照らし出す。不動は手を引かれ路肩に寄った。軽トラックがディーゼルの黒い排ガスを撒き散らし通り過ぎる。
 赤いテールライトが木立の向こうに消えても久遠は手を離さなかった。掴まれた手首に体温が集中した。振り払おうとすると、久遠が振り向いた。
「何か食うか?」
 穏やかな顔だ、と思った。初めて見る。サッカーを目の前にそんな表情はなかったし、娘を見詰める時も。また今まで過ごした夜でも。
 不動がうなずくと、そっと手が離れた。
 大きくカーブする長い下り坂の果てに木立が切れる。最初に見えたのは電話ボックスの明かりだった。緑色に光る直方体が道の脇に佇んでいた。その先は明かりの消えた民家が並んでいる。不意に潮の匂いが鼻をつく。岬まで出た。
 ぽつりぽつりと街灯がともっていた。裸電球の周りを蛾や小さい虫が飛び回っている。橙色の暗い光がアスファルトの道を丸く照らしていた。
「どこも開いていないな」
 久遠が声をかけた。
「ああ」
「自動販売機がある。好きなものは?」
 ベンダーの前で立ち止まり、久遠がポケットから小銭を出す。
「コーラ」
「ペプシだ」
「それでいい」
 ガコン、と重い音を立てて缶が落ちてくる。不動がしゃがみこんでそれを取り上げると、久遠は続けざまに小銭を投入し同じボタンを押した。不動はそれも取り上げた。
 不動はペプシを飲みながら歩いた。久遠は片手に缶をぶら下げたままだった。冷たくないのだろうかと、不動は缶を持つ指を見詰めた。年末も近い。歩き続けて身体はまあまあ温まっているが、空気は酷く冷たかった。特にここへ出てからは。
 潮の匂いがする。海からの風が冷たいのだ。
 不意に久遠が立ち止まった。商店の軒下にバス停のベンチがあった。久遠はそこに腰かけ、ようやく手の中のプルトップを開けた。
「炭酸は十年ぶり…いや、それ以上だ」
 彼は一口それを含み、甘い、と顔をしかめた。
「こんなだったか?」
 不動は隣に腰を下ろし、さあ、と返事を返した。
 民家のある場所に出たのに、相変わらず虫の声がする。もう寒いのに、とも思う。もうすぐ死ぬのかもしれない。死ぬ前の泣き声なのかもしれない。
「どうする」
 低い声で久遠が尋ねた。
「何が」
 不動は何という気もない風に返す。
「これから」
 久遠の言葉は妙に底が知れなかった。今夜のことを問われているのか、来年には終わる義務教育終了後の身の振り方を尋ねられているのか、それともサッカー選手として。
 未来には何でもある、とは思わない。不動は現実のことをシビアに考えられる人間だと自分でも思っている。しかし、何もないのではないかという空虚と漠然とした不安を、久しぶりに身近に感じた。
 山道を歩いていた時ほどの距離もなかった。拳一つ、ペプシの缶一本分離れているだけだった。不動は、久遠の上着の袖を掴んだ。手首に近い部分を、そっと親指と人差し指で抓んだ。
 久遠が缶を置く音がした。まだ中身は残っているようだった。


 民宿の布団の上で服を脱ぎ、不動は横になる。久遠が明かりを消した。窓から射すのは星明りのかすかな光ばかりだったが、それでも相手の表情が分かるほど二人は闇に慣れていたし、互いの呼吸を知っていた。
 ピアスに、久遠は触れた。三つも、と彼は囁いた。叱るのではない。しかし離れていた時間がまるで長く、取り返しのつかないものだったかのように一つ一つ感想を述べ、キスをした。
 不動もまた久遠に触れた。いつも顔の半分を隠す髪をどかし、露わになった額や瞼の上にキスをする。こういうことをしたことはなかった、と思いながらも欲求に従うまま手を伸ばすと、それに唇が続くのだった。
 久遠は上だけを脱いだ。裸の胸に不動は触れた。
 呼吸が聞こえた。どうすればいいかは分かっていた。
 キスの後、すっかり上気した頬を久遠の手が撫でる。それを取ると、するりと指が指の間に滑り込み、かるく握られる。
「…優しいな」
「いつと比べて」
「今までと」
 固い腕が抱き起こす。膝の上で抱かれキスを受けていると、思わず笑いが漏れた。
「あんたが目の前に来た時さ」
 不動は両腕で久遠の首を抱き締め、言った。
「また、どこでもいいから、遠くに行けるんじゃねえかって思った。でも相変わらず、ここも寒くって、しけた町の匂いがして」
 でも、と不動は顔を埋める。
「あんたがいるなら、それでいいかなって」
 腰を抱く強い腕。刹那的な快楽はなく、不動はいつまでも久遠に抱かれていた。夜は長く、辺りは静かだった。空が翳ったのか星明りも消え、ひっそりした闇の中でまた強く抱き締められるのが分かった。
 時々、不動は何か囁きかけようとして唇を開いた。しかしそれは声にならず、小さな溜息とキスになって久遠に降った。それでも消化しきれなかった不安が一言
「明日…」
 という言葉になって漏れた。
 久遠の手が頭を撫でる。
「明日が来たら考えればいい」
 まるで明日が来ない選択肢もあるかのような言い方だった。しかし、そうなのかもしれない、と不動は思った。
 一瞬だけ、来なくてもいい、とも思った。


 夜道を歩くように長く眠った。深く、穏やかな眠りだった。
 翌朝、二人は無常なほど明るい太陽の光に照らされ松山駅のホームに立っていた。
「あんた、どうすんの?」
「帰る。東京に」
 特急の乗り場に向かおうとする背中に、不動は声をかけた。
「遊び、だったんだろ?」
 久遠は振り向いた。目の端や口元がわずかに歪んでいた。彼は珍しく皮肉に笑った。
「誘拐のつもりだったさ」



2010.9.20