雨のアトサキ、あるいは現実にない夢
強い雨が屋根を叩く。悲しみをこの狭い部屋に押し込めてしまうかのように上から強く叩きつける。不動の中に悲しみはないが、雨音が素通りして直接触れる記憶の底にそれは固く目を瞑って眠っているのだった。日本を遥か離れた南洋の地で何故その目を覚まさなければならないのだろう。この島に降る雨はいつもは思いついたかのように集中的に降るか、あるいはやる気なくだらだらと海の上を走る程度だった。それが昨日の夕方から止まずしつこいくらいに重たい雲の腹を見せ、雨垂れに歪んだ窓の景色は灰色の模様の組み合わせでしかなかった。 チームメイトは各々、表に出られなくても為すべきことを為す術は大分心得ていてボールを蹴る音もどこかから聞こえてくる。時々笑い声も聞こえるから何人かは集っているのかもしれない。おそらくキャプテンである円堂の部屋など。 不動はもうボールは蹴らなかった。床の上に身体を転がし、両手で耳を覆っていた。静寂ではない。低く轟く音が耳の奥に這入り込んでくる。いっそ不快なほどだったが、雨音に比べればマシだった。 過去の出来事を不幸であったとは思っている。しかしどれだけ思ったところでそれを捻じ曲げたり修正するのは不可能なことで、だから現在の不動は自分の背後に向けて悲しみという感情を向けない。しかし記憶の中に残されている当時の痛みは、蘇ったとあれば時も所も関係せず当時の痛みのまま不動の胸に深く刺さるのだった。 不動は瞼を閉じる。薄暗い部屋がそれでも明るかったのだと瞼の下の闇に思う。光のような残像が淡く舞い、それが落ち着くと耳の奥の不快な轟きに集中し雨音を頭から追い出す。記憶はいつもどおりあるべき場所に仕舞い抽斗を閉める。鍵をかける必要はない。忘れ去ってしまおうとは不動は考えていない。あの時代もまた俺だ。俺であることの証明だ。別に比較して楽しむ訳ではないが、過去があるからこそサッカーのできる今は輝かしい。自分の意志でサッカーをする日々は充実している。 だから俺は俺の泣き声なんか思い出したくないんだ。 早く夜になればいいと不動は願った。飯なんざ適当でいいからさっさと消灯時間になればいい。あいつのところへ行こう、と思う。大人も自分らローティーンの少年を使って代理戦争まがいのことをしているのだ。これが全く純粋なフットボールを愛する心から開かれているとは信じられない。影山の存在を考えても。だから自分が大人を利用してやるのもおあいこの関係じゃないのか?確かに自分はサッカーがしたくてしているのだが、今は何だか癪な気分だ。大人にも少しくらいは払わせてやる。 早く島中の明かりが落ちればいい。久遠の部屋に行く。足音を忍ばせて。あとは簡単だ。相手も分かっている。セックス。軽く意識を飛ばして、後はすっきりした気分で眠ればいい。 …雨が長い。昼が長い。長い夜というフレーズはよく耳にするけれども、一体いつになったら雨の向こうの太陽は沈むのだろう。瞼を開くが時計の針はちっとも動かず、色のない薄暗い風景は雨に歪んでいるものの動く気配がない。 この世には現実しかないことを不動は知っている。どこへ行っても現実からは逃げられない。弱った鼻先に手酷くぶつかってくるそれ。打ちひしがれた肩を冷たく濡らすそれだ。しかし瞼の闇から蘇ったばかりの不動は一瞬、自分の姿を忘れてしまったのだ。ティーンエイジャーとはいえ、もう幼いとは言えない身体を手に入れたことを。しかし幼いあの日のままに泣く声が薄暗い景色と共に蘇ってしまい、彼の感情は一気に非現実的なそれに引き摺られてしまった。彼は考えてしまったのだ。久遠はこの世にいるのだろうかと。 馬鹿なことを。監督が責任を放棄してそうそう合宿所を出て行くことはないし、そもそもそんな暇もない。おそらく部屋にいるだろう。いなければ響木のもと。そこにもいなければおそらくFFI本部。久遠の存在する場所など限られている。だいたい雨に閉じ込められたこの島から出られるものか! しかしそう叫んだ心の内は既に弱気に支配されていたのだ。雨に閉じ込められたなどという形容をわざわざ持ち出すなんて。 不動は硬い床の上から起き上がり、靴をしっかり履く。慌てふためきたくなどない、残された自制心がぎりぎり肉体をコントロールしている。何気ない風を装って、しかし迷わず意志を持ってあの部屋へ。躊躇うそぶりなどを見せれば余計にあやしまれるものなのだ。何も隠し立てする必要はない。選手が監督に会いに行く。昼日中のこの行動のどこに疚しさや後ろめたさがあるだろう。世界中どこでも行われるような普通の行動。 しかしノックをするタイミングはいつもの夜と比べればタイミングが早く、不動が奇妙な新鮮さに驚いているといつもなら返ってくる返事がない。もう一度ノックする。ようやく応えがあった。 何をしていた様子でもなかった。久遠はベッドに腰掛け、ぐったりしているとも見える姿勢で顔を俯けていた。不動が、監督、と呼ぶとちらりと視線だけで応えた。不動は後ろ手にドアを閉めた。 ほらな、何を怖がることがあるもんか。久遠は部屋にいる。少し疲れているようだけれども監督の仕事なんざ毎日二十四時間あっても足りないようなものだし、当たり前のことだろう。 それで? そこでぴたりと不動は止まってしまったのだ。薄暗い、雨に覆われたとは言え真っ昼間にこの部屋を訪れたことはなかった。昼間、久遠と顔を合わせるとなればそれは練習用グラウンドかピッチの上で、そこには厳然とその瞬間の全てのルールとしてサッカーが存在していた。サッカーの中でなら不動は迷わない。久遠に言いたいことは言えるし、取りたい態度を取ることができる。だが、疲れて俯いた久遠を目の前に、雨音の強く叩きつける下で自分は何を…? 久遠は最初ちらりと自分を見たが、また俯いていた。ほとんど肩を落とさんばかりで、監督として選手にそんな姿を見せていいはずがない、と思考の空白に占拠されそうな頭で不動は思った。でも本当に重そうな肩だ。服が濡れているのではないだろうか。まるでレインコートのように重くのしかかって見える。頭上から強く降り続く雨音。 「セックスしに来たんだけど」 無理やり声に出す。そうすることで身体が動く。靴を脱ぎ捨てながら久遠に近づく。 久遠は顔を上げない。ただ一言「まだ早い」とだけ言った。 早いとは時間が?それとも齢が?今更何を。どちらにせよ酷いセリフだと不動は嘲笑いを浮かべる。 「あんたがその気じゃないなら、してやってもいい」 「何を言っている」 「してえっつってんの、俺が」 肩を掴み耳元にキスをする。久遠はどさりと置かれた重たい荷物のように動かない。それでも不動にとって目の前のこの身体は手のひらに馴染んだ久遠の肉体だったし、その表情も声も久遠のものに違いなかった。俯いたまま上げようとしない顔の、頬にキスをし、髭に自分の頬をすり寄せようとして慌てて顔を離した。何をしようとしたのだろう。まるで曖昧なあたたかいものが自分の中で生まれたような妙な気分。 違う、そんなものは欲しくない。手っ取り早く快楽だけ回収して、切り替えに軽く意識を飛ばして、こんな憂鬱な気分を忘れられればそれでいい。それだけだ。 前に跪き、顔は見ず一直線に手を伸ばす。ベルトを外そうとする、その音は雨音の下でもやはり、やたらに大きく聞こえる。この瞬間の期待感と不安はいつも不動の表情を笑みに歪める。 しかしベルトを外したところで急に久遠の腕が動き、ようやくやる気になったかと思ったらその両腕は自分を抱き締めた。笑みに歪んだ不動の顔は久遠の腹に押しつけられ、彼は今度こそ本当に顔を歪めた。 「…何の真似だよ」 怒りを込めた声に呼応するように、久遠の手は乱暴に不動の髪を掴んだ。 ほらな! 不動は目が覚めるのを感じる。一瞬にして精神の芯まで覚醒した。ほら、これこそが現実だ。いつだって俺の目の前にある。 怖くはない。嘘ではない。痛みは経験のある程度のもの。怖くはない。何をされても。裏切られたとも思わない。久遠との関係は、そういう関係なのだ。 ぐいと引き寄せられる。髪を引っ張られる程度は痛くない。むしろ鷲掴みにされたその感触を歓迎する。ようやく目が覚めたぜ。さあ何をする、何をやる。何をされようが、俺はされるだけじゃなくて、そのとおりにしてやるし何だってしてやる。セックスくらい。 綺麗に剃り上げた頭に落ちたのは痛みではなくキスだった。強く押しつけられ、離れた。キスの仕方を忘れたかのようなぎこちないキスだった。 不動は顎を上げる。仰向くと半分閉じた久遠の暗い眸と目が合った。 相手の太腿に手をつき伸び上がる。一からキスを教えるかのようにキスをした。応える久遠の舌は緩慢というより、無気力な怠惰に捕らわれていた。それを唾液で湿し意志を持たせるのには長い口づけが必要だった。 ほとんど相手に縋りつくような格好の不動だったが実際の立場は逆転していた。だから不動はベッドの上に久遠を押し倒し、上から覆い被さると大いに彼の口の中を蹂躙した。思うままに、したいようにした。 懸命に相手の唇を貪る自分の息の合間に、甘い声が漏れる。頭の中は湯気のように湧き上がる熱に占められていった。やがて思考でも意志でもなく肉体の望むままにキスを続け、疲れ果てて唇を離す頃には自分の舌もだらしなく涎を垂らしている。イヌ…、と一言思い、音を立てて舌を引っ込めた。 「…セックス、してーんだけど」 もう一度確認するように言う。 久遠は黙って手を伸ばし不動の胸の上に触れた。しかしそれは押しつけるだけで、指先で弄る訳でもない。イラッとしたが、頭の中はまだ熱に占められており、苛立ちもそれそのものに執着するほどでもなく緩慢なものだった。不動はその緩慢な苛立ちを、相手の股間に尻を押しつけることで表した。 右目がじっと不動を見つめていた。久遠は胸に触れていた手をずるずると下ろし、不動の尻に添えた。腰が動き、下から軽く突き上げられる。 「そう」 不動は軽く身体を反らし、久遠を見下ろす。 「その調子…」 「不動」 低い声が名を呼んだ。不動は相手の形にそって自分の腰を擦りつけていた。 「不動」 「なに?」 「こういうことをしたいと?」 不動は軽く腰を持ち上げると足の間から指をなぞらせ、言った。 「してえけど?」 乱暴に腰を落とす。それなりに重かったはずだが、久遠は声も上げなかった。また軽く下から突き上げる。セックスの真似事だろうか。しかしもうそのものと大して変わらないと込み上げる感触に思う。 否、むしろそれより性質は悪かっただろう。擦れ合った場所から生まれる熱は不動の意識を雨音の下に縫いとめたまま、じわじわともどかしく身体を侵食した。 曖昧なあたたかいものが腹の奥に生まれていた。熱とともにひたひたと満ちる言葉を不動は噛み殺した。歯の隙間から熱い息が漏れた。その時急に久遠が身体を起こし、不動を抱き寄せキスをした。熱い舌が唇を割る。声が漏れる。甘えるかのようにそれは響いた。 ようやくしたかったことができたのだが、不動は全く不意を突かれたかのように、初めての時でさえ見せなかった狼狽を露わにした。快感は久遠にどこを触れられても生まれ、腹の奥から不動を翻弄した。 部屋が徐々に暗くなっていることに不動は気づかなかった。懸命に声を殺し、久遠の肩にしがみついた。たまらず首筋に頬をすり寄せると、応えるように久遠の腕が強く抱いた。 熱にそのまま崩れるように眠った。目が覚めると久遠は机で対戦相手のデータを手に監督の顔で仕事をしていた。ライトスタンドに照らされた横顔はこちらを見ようとしない。不動はベッドからその横顔を見つめていた。机の上には水のコップとサラダがのっていたが、明かりにつやつやと光るミニトマトが見えたので、食えと言われるまで黙っていようと思った。 しかし喉は渇いていた。水が欲しかった。雨はすっかり止んでいて、乾いたシーツが不動の身体を包んでいた。
2010.12.7
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