under the karma







 夕刻、食事も済んだ後だ。試合直後の、本来ならばほっとする西日の空が窓から見えた。浮かぶ雲が沈む日の残光に強烈に照らされ明々と燃えている。
 誰にも語り足りない何かがあって、それは悔しさでもあり、キャプテンと監督の言葉に背押された些かの充足でもあり、未定の結果に対する不安や、ともかく今日の試合に心穏やかでいられた人間はいない。そんなざわめきに満ちていたのだ。
 飛び込んできたニュースはそのざわめきを一方向にまとめ上げ、衝撃となってその場を揺らした。実際、何人もが思わず椅子から立ち上がり、テレビに向かって身を乗り出した。勿論、鬼道も。
 不動は椅子に腰掛け、足を組んだまま動かなかった。衝撃が雷のように全員を打って後は、息も詰まるような沈黙が守られていた。繰り返す急報を、誰もが聞き逃すまいと固唾を呑んで見つめていた。
 影山零治が死んだ。
 まさか、という誰かの小さな呟きが飲み込まれ、すぐには信じ難いそのニュースに釘付けになっている。不動は視線だけを動かし、鬼道の後姿を見た。取り乱してはいない。しかし正常な判断も出来ているかはあやしい。意志が感じられない。ただ、棒立ちになっている。机についた手がつっかえ棒のように身体を支えている。
 響木と久遠がやって来て鬼道が呼ばれる。円堂はごく自然にそれに伴って行く。去り際に久遠が解散の声をかけ、数名、気の合う者が残って小さな声で話す以外はほとんどが部屋に戻った。不動もそのようにした。
 ベッドにごろりと横になり、まだ明るさの残る天井を瞼で遮断する。
 自分の呼吸の音だけを聞いた。何も考えなかった。時々勝手に流れる過去の映像を流れるままに任せる。映像は瞼の裏で揺れる黒い波にさらわれ、断片的に時系列もなく浮かんでは消えた。
 一行が戻ったらしいのはそう遅い時間ではなかった。車の音がした以外、やはり全てが静かなままで、耳を澄ましてようやくドアの閉まる音が聞こえた。鬼道だろう。
 誰かそばにいるのかもしれない。円堂。佐久間も帝国学園で鬼道と共に影山の最後の時代を築いた者同士だ。話したいことがあるかもしれない。自分が行く必要は、ない。おそらく。
 そもそも何を話せばいいのか。互いに影山に深く関わった人間ではあるが、鬼道と不動では立場が恐ろしく違う。鬼道は最高傑作と繰り返し影山が名指ししたサッカープレイヤーだ。彼自身の言葉を借りれば、その全てをもって憎み、愛したサッカーの体現者だった。片や。
 不動は瞼を開く。潮の匂いをかいだ気がした。部屋はすっかり夜の暗さに塗り潰され、何も見えなかった。起き上がる際、手で触れた壁の感触が鉄ではなかったので、あの潜水艦の中にいたような幻覚は一瞬で拭われた。
 二流と自分を言い捨てた男が、もうこの世に存在しないだと?
 どの瞬間よりも強く覚えている。既に自分を見ようとしない後姿を。
 死んだ。もう勝つことはできない。勝負の場がない。
 どれだけ憎んでも自由だ。その感情は素通りし、死という決定的に違う次元に吸い込まれてゆく。
 不動は口を開く。何と呼ぼうと、何と罵ろうと、その言葉も霧消する。
 届かないからだ。
 もう存在しないからだ。
 死んだからだ。
 死…、と考え、鬼道は死体を見たのだろうかと思う。
 耳を澄ましても泣くような声も暴れるような気配も感じられない。
 今日の試合で影山と決別できたから? 呪縛から解放されたから、と?
 壁に軽く頭をぶつける。そのまま耳を押し当て、静かに呼吸した。瞼を閉じ、眠りのような静けさを擬態した。
 何も聞こえない。どの部屋からも。何も。
 影山と関わった多くが負の影響を受けている。鬼道だけではない、因縁深いと言えば響木、祖父のことがある円堂。監督の久遠もそうだ。
 この中で影山のために泣ける人間がもしいるとすれば、それはおそらく鬼道だけなのだ。
 自分にはそんなことはできない。不動には影山のために用意された涙はない。確かに不動にとっても影山はサッカーをする場を与えてくれた男だし、汚辱にまみれた記憶の唯一の生き証人にしてそれを揉み消してくれた恩人ではある。
 口の中で噛み砕いたSDカード。
 冷たい身体だった。意志と悪意を縒ったワイヤーで作られたような筋肉。意志を行使するために絞られた身体。この手で触れても、心と同じくぬくもりをなくしたかに感じられた。心臓の真上でさえ。
 そうだ、俺はあの男とセックスをした。何度か? 何度も? 心の通わないセックス。契約のように必要なもの。利用するために。心の底で罵るために。
 瞼が開いていることに不動は気づかなかった。闇の中からぼんやり壁やドアの形が浮かび上がり、ようやく自分のいる場所に気づく。肉体が存在し、ベッドマットも壁も自分の触れた部分にはぬくもりが移っている。もたれていた身体を起こすと、耳のそばがひんやりとした夜の空気に晒された。
「…そうか、死んだのか」
 不動は呟いた。自分が呟いた自覚さえなく、掠れて落ちた声に自分でも驚くほどだった。そしてもう一度、影山は死んだのか、と胸の中で繰り返した。
 消灯時間が近い。ドアを開けたが世界中にミュートをかけたかのように廊下もどこも屋根の下は静まりきっている。
 不動は暗闇の中慣れた廊下を歩く。身体が自然と覚えているリズムで静かに歩き、選手達とは離れた部屋の前に立つ。
 ノックをしようと思って上げた手を、しかし動かすことができない。溜息をつくように手をそっとドアに触れさせると、中から入れと声がした。
 部屋は暗く、デスクスタンドとテレビが不健康そうな光を放っている。久遠はいつものように机に向かっていた。テレビは音を極力抑えて今日の試合を映していた。もう後半だ。向こうの7番の姿がある。
「…どうした」
 低い声で久遠が聞いた。不動はドアの手前に佇んだままだったからだ。返事をしないでいると、椅子を回転させて久遠が振り向いた。その顔は試合直後自分達に声をかけたあの表情と打って変わって、眉間に深い皺が刻まれている。
 眉間の皺は自分に向けられた感情でないことは分かっている。この男もまた影山の策略によってサッカー界を追われた身だ。
 十年ぶりに巡って来たチャンス。かつて同じ土俵に立つことさえできなかったサッカーの決着。3対3のスコア。引き分け。
 影山零治は死んだ。
 もう勝つことはできない。勝負の場がない。
 不動の顔には自動的にいつもの笑みが浮かんだ。
「別に。あんたの顔見に来ただけ」
 久遠は表情を変えず、何も言わなかった。
 帰る、と不動は呟いた。
 背を向けようとしたその瞬間、
「無理せず休め」
 と久遠が言った。
 不動は笑みを浮かべたまま尋ねる。
「無理って?」
「…早く寝ろということだ」
 言われなくてもそうする、と言い返そうと思ったが不動がしたのは久遠の顔をじっと見つめることだけだった。
 生きている。久遠は生きている。今は。
 明日は?
 明後日はどうだろう?
「おやすみ、久遠、サン」
 不動は部屋を出た。背後から篭った低い声がおやすみと言った。低すぎて、まるで消えてしまいそうな声だったが、世界があまりに静かなので不動の耳にははっきり届いたのだった。
 部屋に戻り、今度こそ眠るためにベッドに横になり、瞼を閉じる。
 そうか、人は死ぬのか。
 改めて不動は思った。
 いなくなって、二度と戻らないのか。死体が残っても、既に成す術はないのか。その喪失さえ当たり前のように日は沈んで、夜になり、眠って目が覚めれば朝が来ているのだろう。
 闇の中、不動の手は真上に伸びる。水面を探すかのように、天井に向かって真っ直ぐ伸び、掴むもののない手がゆっくりと拳を作る。
 息が静かに静かに口の端から漏れた。理由も分からないのに、感情が振れているとさえ分からないのに、涙は目の端からこぼれて伝い落ち、耳元を濡らす。
 悼みでも、悲しみでもない。天気の空の下を雨が降るようにその涙は流れ続け、不動は眠りとも覚醒ともつかない混沌とした意識の中で静かに、遠い波の音を聞いた。



2010.11.15