hurtfull/heartless







 雨が降り出して泥だらけになったところを、しかし誰も練習を中断しようとはせず、結局自分もまた鬼道と二人ぬかるむグラウンドに仰向けになって雨を飲んだ。走り回り、ボールを奪い合い、身体は内側からかっかと熱を放出し続けていたのにシャワーに打たれるとその肉体が想像以上に冷えていることに驚く。隣からも不用意にカランを捻り降り出した大量の湯に熱い!と悲鳴を――しかしどこか安堵と喜びを含んだ悲鳴を――上げるのを聞いたから、皆すっかり冷たくなっていたのだろう。
 もうもうと湧き立つ湯気に息苦しいのさえ心地よく、不動はシャワーの下で半ば俯き、後頭部から首にかけて叩く湯の心地よさに半分ほど目を瞑っていた。
 そのまま心地よさにのまれていれば気がつきもしなかったのだろうが、多分鬼道と話している佐久間の声に神経を刺激されて耳や目がまた聡く働くようになってしまったから……
 赤い痕跡は内股にあった。打ち身のように大きくはないし、擦り傷のようにしみもしない。虫刺されのような痒みも感じない。指の腹で撫でても腫れて盛り上がっているようではなかったから、不動もいい加減言い訳のように連ねたそれら可能性を破棄せざるを得なかった。
 久遠がそこに吸いついたのは一昨日のことだ。まだ消えないのか、ともう一度指で撫でる。
 不思議なことと不動自身が感じるのは、こうやって自分で触れても何の感覚も得られないことだ。勿論一般的な男としての機能は備えているが、例えば痕のある内股やよく触れられる胸の部分など、自分の指の感触以上のものは湧き上がらない。あればあったで煩わしいと思ったけど。
 自分が声を上げ痕跡の残されたそこを見下ろし不動は、久遠もまた特別な男ではないのだろうと思う。やり方こそ柔らしいが、やっていることは昔の相手、つまり影山とも変わらないと感じるのだ。
 影山は最終的に自分を二流と言い捨て、更には自分を沈む潜水艦と共に海へ捨てたが、それでも関係を持つ間はその所有欲を隠さなかった。痕を残すのは最たる方法で、あの頃は痣や傷が絶えなかった。今はどれもこれも消えてしまったけれども。
 その点鬼道ちゃんは、と不動は耳を澄ます。佐久間がさかんに気遣っている。あいつは一挙手一投足から影山に染まっている。いつかは消える痣など必要ないのだ。
 ――もたもたするな。久遠の声がする。
 カランを捻り、不動はシャワーをとめた。髪の先から滴の落ちる音がぴた、ぴた、とやけに大きく聞こえた。タオルを身にまとった後は、内股の赤い痕跡のことは頭から追い出した。

 暗い影が視界の端にまとわりついていて、それがひどく息苦しいことに不動自身も驚いている。あの湯気を吸い込んだ息苦しさとは別の、呼吸するために必要な空気がなくなってしまったかのような真空の苦しさだった。時計は三時近くを示していた。何とも半端な時間だ。部屋は夜のような色で塗り込められているのに、ともすれば夜明けの気配さえ窓からかぎとることができる。
 起きているだろうと思った。試合が近くなれば、その分監督は睡眠時間を削る。どんな監督であってもそうだ。サッカー以外の非合法な手段を講じることに平気だったあの男さえ安眠はしなかった。そして久遠は超のつくほど現実派であるから、不測の要素に勝敗を委ねたりはしない。手の中にそろえたあらゆる武器を効果的に用いんと机に向かう、その後姿はライトスタンドの逆光で悪魔じみた暗ささえたたえていた。普段は無感動に見せている分、十年サッカーの現場を離れざるを得なかった執念がそこに注ぎ込まれているようにも思える。
 ノックをせず部屋に入り、しばらく戸口に佇んだままその後姿を見ていた。どれくらい待っただろうか。
 ――用がないなら戻れ、と久遠は低く事務的な声で言った。
 不動は意図的にゆっくりとした振る舞いで暗い背中に近づき、後ろから相手の首元に指を滑らせた。
 ――時間を間違えている。わきまえろ。
 久遠の声は相変わらず感情が見えないが、それでもペンを持つ手が止まっていた。不動は何も言わず、指先を喉元から顎へ滑らせた。ヒゲに触れるとその感触を楽しむように指を往復させる。
 ――今夜はするつもりはない。と言う言葉は強いものではなかったが、確かにこの男はそれを違えないだろうと不動は感じた。しかしこのまま引き下がる気にはなれず、襟足の髪をどかして露わになった首筋に吸いついた。そこでようやく、よさないか、と久遠の手が制しにかかった。
 久遠が椅子を回転させ視線で攻防したのは短い時間で、彼は即物的に不動の腰を掴むと自分の膝の上に乗せた。キスもない。囁く言葉も。ただ下に穿いているものだけずり下ろされ、まるで作業のように触られたではないか。
 それなのに不動は触れられたそこから神経の芯の部分まで痺れるような感覚に襲われ、相手の肩にしがみついたのだった。若さゆえに持て余されたものを、まるで義務を果たすかのように淡々と処理されているだけにも関わらず、不動は熱い息を吐き自分が頬さえ紅潮して興奮しているのを自覚した。
 そんな調子で簡単に果ててしまい、久遠が手の中のものをティッシュで拭き取るのを見ながら悔しさに襲われ、しがみついていた手を放して相手の股間に触れたが、そこが平静を保ったままなものだから悔しさには怒りさえ混ざった。
 ――アンタ、俺のことが欲しいんじゃねーの…?
 悔しさから出た言葉に震えが滲んでいるのに、また自分で腹を立てながら不動は膝から下りる。射精の直後でわずかに足が萎えていた。膝がぐらつくのを久遠の腕が咄嗟に支えようとし、不動は怒りまかせに払いのけた。
 その時、久遠の目つきが急に変わり、それが怒りか何の強い感情なのか判断する間もなく不動の身体はベッドの上に突き飛ばされた。背中でスプリングの跳ねる音が篭る。仰向けに倒れた体勢から反射的に起き上がろうとしたが、久遠が足を無理やりに広げさせ、しかも尻がベッドから浮く勢いだったからそれも叶わなかった。
 赤い痕跡のあるあたりを手が強く押していた。大きく広げられた足の間に久遠の顔が見えて、この状態で罵る間の抜けた感じに不動は更に怒りを強くしたが、久遠はそれを意に介することなく顔を俯けた。
 何をされているのか一瞬分からず、初めて体験するその感触にただ開いた口から声が漏れた。思考が言語を取り戻し、口で……と改めてこの状況を感じると、次の瞬間あふれ出た感情の奔流は怒りでも悔しさでもなく不動の目の前を真っ白に染めた。
 ――なんで…
 不動は無力な子供のように――かつて自分が一番嫌悪した存在のように――ただただ震える言葉を繰り返した。
 ――なんで…?
 本当に涙があふれ出てきて、震える手のひらで顔を覆うと涙だけあたたかいのが妙に現実的だった。

 夜の明ける光に瞼を開ける。深い眠りの後らしく、起きたばかりというのに頭の隅々まですっきりとしていた。不動は身体を起こし身体の節々を動かすと、床の上を見下ろした。そこには久遠が毛布一枚に包まって睡眠をとっていた。
 昨夜のことを思い出すのに、不動は赤面をしなかった。今更性行為に感傷や感慨を持つにはスレていたが、それでも初めてフェラチオされたのが男相手でしかも久遠であることは意外だった。自分でしても、まさかされることがあるとは思っていなかった。そこで、いずれ正常に女と関係を持てるようになったらばされるつもりだったのだろうと自分が漠然と思っていたのだと気づき、馬鹿らしさに自嘲の息をつく。
 布団を捲り、むき出しのままの自分の太腿を見た。内股にはまだ赤い痕跡が残っていた。不動はそこをまたそっと指の腹でなぞった。一瞬だけ昨夜の記憶が火花のように皮膚の下に走った。
 不動は膝を抱えて、久遠が目を覚ますのを待った。



2010.10.20