ロンサムスターの悲劇
60分プラスロスタイムだのハーフタイムだのその前にはメンバー紹介だのが目の前で繰り広げられ、でもまあややこしいこと抜きで60分に60秒を掛けて3600秒と数えた時にそれが意外と短い時間の数字のようにも思えて、でもそれは10秒で行える行為が360回繰り返されるくらいの時間だよなと思うとそこそこに凄い時間だと思うし、3600秒リフティングとかできるかと言われれば途中で失敗しそうな気がするからやっぱり凄いのかもしれない。 たかが1時間。たかが1日の24分の1。こうなってくると1日の価値も絶対的なものではなくなる。だいたい今の俺と余命半年の人間とでは1日の価値は全く違ってくるし同じチームの中にあっても、例えば今日試合に出場した飛鷹にとっての60分と俺の60分では全く違う意味合いを持つ。 つまり俺は試合に出たくて出たくてたまらなくて悔しくて腹立たしくて歯がゆくて苛々して脳内ではのた打ち回るほどで、つまりサッカーがしたくてたまらないのだなあと一旦冷静に自分を分析したように見えても内なるそれを抑えきることができず湯船から足を蹴りだす。 濁った湯がバシャンと跳ね上がり一人きりの風呂場に響いた。 俺が最後だ。 もちろんわざとだ。 飯だって一人で食ってるのに裸の付き合いなんかできるかという訳で人のいない時間帯を狙えば自然、順番は最後になるし湯船は汚れてるしそのくせ熱い風呂が好きな奴がいたらしくやたら熱い仕様になっている。マットもびしょびしょで、そりゃあ二十何人も入れば道理だが、しかし原因の主たるや脱衣場ですれ違った際にちらりと視線だけをくれた木暮にあるんじゃねえかと思わなくもない。髪がびしょびしょだった。 が、それら全部自分で望んでこの風呂に入った結果だから大して文句をつけようという気もなくて、今日一日のシメまでイラついて堪らないのはだから何で俺が試合に出れねえのかってことだ。ピッチに出ることさえできりゃあ風呂が汚れてようがマットがびしょびしょだろうが文句はない。 と言うことはやっぱり文句がある訳で、とにかく目につく何もかもに苛々しながら熱い風呂につかって、そろそろ消灯されるから例えば5分入れるとして掛ける60秒で300秒になる訳だから試合の時間がうんたらと考える内に気分が悪くなる。 たった5分!300秒ピッチでボールを蹴って何ができると言えば俺なら絶対1点入れられるはずだ。あのクソ監督。 分かってやがるのだ。キレた頭を持っている。虎丸の才能を見抜いて最高のタイミングで試合に投入した。なら飛鷹は?クソッ、俺が……。俺はこの先の科白を言っていいのだろうか。劣る、と俺自身が言葉にするのは歯噛みする思いだ。だがまさかそんなはずはない。あいつの動きはてんで素人じゃねえか。ならば何故だ? ふと窓の外が目につく。星がよく見える。周りの部屋の電気が消えたのだ。あそこに見えるのは天の川でよく光る星が幾つか目立って分かるから多分あれが夏の大三角形で、って何で俺はのんきに星なんか眺めているんだろう。 もう一度シャワーで身体を洗い流し風呂場を出た。タオルで髪を拭きながら鏡の前に立つ。顔が赤い。どれだけ入ってたんだ。俺は鏡に額をぶつける。冷たくて気持ちがいい。 と思う間に血の気が引いて、頭のてっぺんから一気に冷たいものが身体の中を流れ落ちていくような感触がして、やべえと思った時には身体はずるずるずり落ちて床に倒れている。湯当たりとか。馬鹿か俺は。 これまでも何度となく危機や難局には出くわし自分で何とかしてきた。つまりこのまま倒れておいて動けるようになったら自分でどうにかするということ。仕方ねえ。目の前が暗くなる前にせめていくつか悪態を吐くことにした。尻丸出しとかマジありえねえ。 今の自分が気を失っているのか、今まさに気を失おうとしているのか。どちらにせよ意外と心地よく、冷たくなった頭がそのままぼんやり痺れていく感覚は存外癖になるなと思いながら、あれか凍死ってこんなんだっけ?と俺は考えるが、何がキッカケでそんなことを考えているかが思い出せない。瞼の裏には星が輝いていて、あれがベガ、アルタイル、もう一つの名前が思い出せない。って言うか星が見えてるんだから起きてるんじゃねえか?起きたくねえなあ、気持ちいいのに。 星が見えるってことは水の中じゃないってことだ。潜水艦の中でもない。灰色に曇った瀬戸内海でもない。自力で泳ぎ着いた。違う、誰かが引き上げてくれたのか。星の光が窓から射すと油がはねるような音がする。ピンとかピチンとか高く、小さく、転がるような音だ。五月蠅くはないが、あまり頭の中に跳ねられると堪らず、今度からカーテン閉めて寝なきゃと思うけど俺はいつからベッドに横たわっているのだろう。 思い出せない。 今いつだ何時だ。 3600秒という回答が頭の中に浮かんで。ああ俺試合に出れなかった!あのクソ監督!で風呂場で湯船を蹴ってマットがびしょびしょで木暮とすれ違って、うわ違う行き過ぎた。 俺は脱衣場の鏡の前に倒れていたはずなのに今いるここはどこだ? 瞼が開いた。 天井が暗い割りに明るい。窓が開いている。風が吹き込んでいる。星が見える。名前は分からない。後姿が見える。大人の、男の、後姿。今日の60分プラスロスタイム他ハーフタイム諸々で見飽きるほどに見飽きた後姿。 何でここにいるんだよ?てかここどこだよ?あ、俺の部屋だ。 目が慣れてくるのと共に頭の方も冷静になってきた。もう気持ち悪くはない。でもあれだよな、湯当たりしたのはこのうたた寝の間に見た夢で本当は普通に風呂から上がって部屋に戻って寝てる内にこいつが勝手に俺の部屋に入ってきたとかじゃねえんだろうな。 と言うことはケツ丸出しで脱衣場の床に倒れていた俺をこいつ、あるいは最悪の場合チームの誰かが発見、報告、連絡、相談…まあ相談のステップは飛ばして部屋まで運ばれたことになる。うわ明日練習出たくねえ。つかケツ丸出しをチーム内女子マネ含む二十数名に知られたのだとしたら、俺は潔く瀬戸内海に散る。 そろそろ進退決めねえと辛いと思っていたら「分かっているだろうが」と振り向かず奴は言う。「体調管理は選手の条件だ」 「分かってるよンなこた」 「分かっている様には見えないが」 消灯の見回りで私が見つけた、早まって飛び降りるなよ、と言葉は続いた。ありがたいこって。感謝が瞼から溢れて涙が出そうだぜ。 「…で? 俺はもう大丈夫なんすけど」 身体を起こし大丈夫なことをアピールしつつキッカケを作ろうとするが監督はまだ窓の外を見ていて、何だそりゃ星空ってガラか、それとも背中見せてるのはあてつけか俺に試合に出れねえ理由を考えろってか、とまたイラっときてちょっと気分の悪さがぶり返した。 壁にボールの跡。ボロボロのサッカーボールも適当に転がしていたから見られたろうな。 あんまり知られたくなかった。あからさまな努力の形跡なんか。 っていうか起きて気づいたんだけど全裸だし。いや、服着せられてる方が怖いけど何かもう…疲れた。 「不動」 うわ次何言われんだろ、何言われてもどうこうできねえしと思っていたら「以後気をつけろ」と意外にあっさりしている。 「返事は」 「……はい」 ほとんどこっちを見ない。そのまま出て行こうとする。窓閉めねえし。別に寒くねえからいいかと思ったら寒かった。くしゃみ、を、我慢。 「か…」 くしゃん。 「……ん」 ここでくしゃみを我慢できなかった俺が大人しく監督と呼び直せるはずもなく、奴は奴でもう一度体調管理について一言くれて出て行けばいいものを立ち止まって振り向くからバツが悪いったらありゃしねえ。しかも戻ってくる。勝手に俺の荷物をあさる。Tシャツを投げてよこさずわざわざ手渡す。俺がそれを着る間に窓を閉めた。風の音が止み、肌寒さが急に静まった。 監督、と人のことを呼ぶのは久しぶりも久しぶりだよな。ずっと昔そんなことあったっけか。影山は総帥っつーか、影山サンっつーか、今はもう呼び捨てにしてやるけど。 久遠サン?そんな間柄じゃねえっつうの。じゃあ……監督。 「か……」 もう一度呼ぼうとしたが喉がいやにがさついて声が出ない。言いたくねえんだ、俺は。 俺はやっぱり黙っていた。その時、何かが頭をぼすんと叩いて、俺はそんな感触をほとんど覚えてないからそれが監督の手のひらで、厚いそれが頭を叩いたというか置いた?撫でた?のが信じられず全身を硬直させ息を飲む。 「心配をかけるな」 それだけ言って監督の後姿はドアの向こうに消えようとした。 「あ……」 俺の口は開いた。そしてあまりに愚直に素直に「はい」と素朴な返事をした。それを聞き終えてから、ドアが閉じた。 空気が抜けた。後ろに倒れこむとマットの反動で身体が弾んだ。ようやく息がつけるようになった。何だったんだよ、つうか何なんだよあれ。尻丸出しの危機は確かに脱したはずなのに妙な空気になりやがって。 時計が目につく。消灯時間から一時間以上過ぎている。 そこで気づかず寝てしまえばよかったが、俺には考える癖がついている。弱肉強食の世界を生き抜くためには頭を使うのが当たり前だからだ。監督は消灯の見回りで俺を見つけた。 1時間3600秒! ああもう寝よう。これ以上考えたら俺は変になる。頭に乗せられた手の厚みや心配をかけるなという言葉や顔を見せなかった男のことは、試合に出れなくて出たくてたまらなくて悔しくて腹立たしくて歯がゆくて苛々して脳内ではのた打ち回るほどで、つまりサッカーがしたくてたまらないこんな夜に起きるべき出来事じゃねえだろう。パンクする。 窓から星の光が射すのさえ眩しい。俺は立ち上がってカーテンを閉めようとするが、ここでまた尻がすーすーする。 ああクソ何だろうなあ全くもう。 カーテンを閉め、パンツをはき、床の上で頭を抱え込む。いや、あそこでTシャツとセットでパンツを手渡されても嫌だったけどよ! ベッドにダイヴし頭までシーツを被る。今から寝たら何時間眠れるだろう。3600秒掛けるいくつだ?いやもういい。数字なんか真っ平だ。眠れるだけ眠る。深いところまで。
2010.10.7
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