無音の断片







 乾いたドラムの音が耳を打つ。薄く瞼を開けると、外れたヘッドホンが目の前に転がっている。重たい熱気がのしかかる。息が思いの外激しく上がっていた。不動は空気を貪りたいのを堪え、細く長い息を吐き、もう一度ゆっくりと瞬きをした。
 真っ暗だ。腹の辺りにやたらと眩しい光源があり、手を伸ばして掴む。慣れた手触り。ipodを落とすと、光源も、耳元のドラムの音も消えた。
 目だけでぐるりと見回す。ここがどこかは分かっている。生まれた家でないことも、生まれた町でないことも分かっている。しかし急に生まれた無音の世界は不動の連続した記憶にも空白を作り、今日がいつで、どんな日の続きの夜なのかを一瞬忘れさせた。
 身体を起こす。首元や背が不快で、撫でれば汗が滲んでいるのが分かる。既に真っ暗だが不動は両手で顔を覆い、しばらく俯いた。暗闇を払いのけ、更に何も見えない場所で静かに落ち着こうとするように。
 暑い。息が詰まる。
 不動は固く瞼を閉じ、乱雑に飛び交う記憶の断片を追い出そうとする。それは痛みや恐怖ではなかった。既にそう呼ぶことを止めた父と、母の面影だった。
 熱い。化繊の毛布に包まれているように。
 声を殺し息を潜めじっと夜の気配を窺う。耳に意識を集中させると様々な音が蘇ってきた。壁の向こうの鼾。窓の外に吹く夜風と葉擦れの音。誰かが廊下にいるのも分かった。体重のある足音が、硬く響く。
 立ち上がり、手の汗をシャツで拭う。表情をわざと作る必要はないと思った。今でも充分不機嫌そうな顔をしているだろうから。
 廊下に立っていたのは予想どおり久遠で、扉を開けた不動に感情のない視線を送る。
「こんな夜中に何の用だ?」
「あんたこそ」
 不動はその脇をすり抜けるとトイレに向かった。
 明かりは眩しすぎる。彼は電気のスイッチを無視し、中に入った。手洗い場の蛇口をひねり、勢いよく水を出す。頭を突っ込むと水が飛び散り服も濡れた。
 首の後ろまで洗う。乱暴に顔を擦る。冷たい水に少しは息が通るようになる。
 水を止め、顔を上げて大きく息を吐くと、その後でまた無音の世界が蘇った。居心地は悪くなかった。無音の外、頭の中には何もなかった。何かを思い出していたことさえ忘れられる。
 トイレから出ると、廊下の壁にもたれかかり久遠が待っている。濡れた頭に触る厚い手を振り払い、不動は部屋に戻ろうとする。久遠はついてきた。
 ドアを閉める時だけ、一瞬の攻防があった。久遠はドアと壁の間に靴を差し込んでいた。似たような手口は見たことがあるし、自分もやったことがある。不動はドアノブから手を離し、後は振り返らなかった。久遠は静かにドアを閉めた。
 ベッドに腰掛けると後ろから手が伸びてきて、濡れたシャツを脱がせる。不動はそれに抗わず、脱いだものを床に捨てた。
 タオルが荒っぽく髪を拭いた。タオルを越して、手のひらが頭の形を確かめるのと、背中を撫でるのが分かった。撫でると言うよりは、手のひらでぐい、と押すようだった。骨が押され、その奥で心臓が圧力を感じ取る。不動は息を吐く。
「風邪を引くような真似はするな」
 普段から低い声が、尚低く鼓膜を震わせる。無音の世界に掠れた振動が走る。不動は瞼を閉じる。大人の手が、がさがさと自分の髪を掻き撫でる。芝生の匂いがする。もう手に染みついているのだと思う。
 久遠はベッドの上から退き、服は自分で着ろ、と言った。不動はいつものにやにや笑いを浮かべて見上げる。
「…俺が、着せてくれとせがむとでも思ったのか、あんた」
「子供だからな」
 舌打ちすると、ほら子供だ、と久遠は笑った。
「眠れ。今度こそ」
 ドアの向こうに消えてゆく背中を不動は見送った。広い背中だと思った。背筋が伸びていて、いつもピッチを見ている背中と同じだと思った。監督なのだ。自分はただの子供にされてしまったというのに。
 まだ少し湿った髪に触れる。自分の指は細い。大人と比べれば柔らかくさえある。これでもヤワな生き方はしてこなかったつもりなのに。
 新しいシャツに袖を通しベッドに横になる。腰にipodが当たる。不動はヘッドホンをはめようとして、ふとその手を止めた。
 すっかり静まり返った頭の中に響く音があった。普段から低い響きが尚低く、無音の世界を震わせる。久遠の声。
 おやすみを言う相手は既にドアの向こうだった。不動は瞼を閉じた。乾いたドラムの残響が耳の奥に聞こえた。



2010.9.11