under the duvet #5







 久遠道也という男が、おそらく不動は最初から気に入っていた。
 勝つために必要なものが何なのかを知っている監督。精神論に頼らず具体的な指示を出すことができる。特訓の意図を説明しないせいでチーム内では多少の不満が湧くことがあったが、そういう方法も嫌いではない。
 現実を正確に把握し、実力を重視する。曖昧なものに勝負の行方を委ねたりしない。サッカーの力がある限り、相手は監督、自分は選手という立場ではあるものの対等な関係でいられる人間。
 無口なところも、怒った時の静かな迫力も嫌いじゃない。
 だからこそアジア予選が始まってからの自分の扱いにはひどく不満が募るわけで。
 ベンチを去れ、とまで言われた。その後見せつけられた。彼の監督としての手腕。彼が抱えている武器。
 勝利。不動の欲しかったものが目の前にあった。自分のいないピッチの上に。
 サッカーをするためにここにいるのに。
 サッカーをするためにここまで来たのに。
 押し殺した不満は身体の奥で渦を巻く。ボールを蹴っても気が晴れない。どろどろとした熱となり、暗く澱む。
 不動はリフティングを止め、息をついた。
 風呂には入ったが、これでまた薄っすらと汗が浮いた。
 部屋を出、消灯後の暗い洗面台で顔を洗い指で歯を磨く。歯磨きも済んではいたが行動を起こす前には念を入れなければ。何度もうがいをし、最後にもう一度水で顔を洗って、鏡の中の自分を見る。
 綺麗な笑いは自動的に浮かんだ。身体が覚えているかのようだ。
 監督の部屋は合宿所の中でも選手達とは離れている。
 夜の廊下を不動は迷わず歩いた。一度もそこを訪れたことはなかったが一歩も迷うことはなかった。何度も頭の中でシミュレーションしていたかのようだ。事実、そうだったのかもしれない。
 静かにノックをした。一瞬の沈黙の後、応える声があった。不動が姿を現しても久遠は表情を変えなかった。椅子をわずかに回転させて振り返り、いつもの考えの読めない目でこちらを見ている。
「消灯時間は過ぎているが」
「質問があります、監督」
 言葉とは裏腹に敬意のない声。
「何で俺を試合に出さないんですか」
「お前達は私の指示に従っていればいい。以上だ」
 くるりと背を向け、机に向かう。
 不動は二歩、近づく。
「質問に答えてないじゃないですか」
「くだらん問いに答えるつもりはない」
 更に近づく。久遠のすぐ背後まで。
 ライトスタンドに照らされた机上には韓国代表チームであるファイアードラゴンの公式戦記録があり、そこに更に書き込みと、別紙にフォーメーションを書いた紙がある。左手の先にデジカメも置かれていて、試合途中らしい映像が一時停止されていた。
 不動は後ろから手を伸ばしデジカメの電源を落とす。久遠はそれでも怒り出したりはせず、平生と変わらぬ様子でまたちょっと不動を振り向いた。
 肘掛を掴んで不動は、久遠にこちらを向かせた。
 最初からこのつもりだったのだろうか、自分は。もう何ヶ月も男と寝ていない。平和な毎日だ。毎日サッカーができる。この上なく望んでいた日々だ。そして?
 試合に出たい。だからこんな手段を取るのか。影山を相手にした時よりもひどい。
 本当にそれだけの理由だろうか。身体の奥で澱む熱。発散されず溜め込まれたもの。目の前には大人の男。
 不動は最初から久遠道也という男が気に入っていた。
 覆い被さるように顔を近づける。久遠は眸を逸らさない。右目と、髪に隠れた左目も真っ直ぐ自分を射抜いているのだと、胸の中心に走るひやりとした冷たさに知った。
 男と寝るのは簡単だ。必要なのは技術と恐怖心の克服。
 しかし身体が動かない。
 閉じろ、と低い声が囁いた。
「目を閉じろ」
 その言葉に従うことが一瞬、不動には心地よかった。
 どちらから触れた唇か、しかし先に舌を出したのは久遠の方で、一連の流れに不動はああ慣れてるなと思いながらも、悪い気分ではなかった。
 シャツが捲り上げられる。それに協力して脱ぎ捨てる。久遠は脱ごうとしない。しかもまた椅子の上だ。構うか。たかがセックス。
 久遠は前の方には触ったが尻まで手を伸ばさない。やる気がないのか。それとも少年相手は初めてなのだろうか。だが、ここまできたら引き下がらせるつもりはない。不動は自分で後ろに手を伸ばす。前を伝うもので指を濡らし、自分の指先を滑り込ませる。ああ、自分で広げさせられたこともあったな、と遠くに思った。
 ベルトを外し前をくつろげたのは久遠自身で、不動は唇の端を持ち上げ笑う。擦る久遠の手に自分の指を沿わせる。
 やばい、こいつでかい。
 と久しぶりの行為に不安が掠めたが、その時久遠の無骨な指が尻を掴んだ。入り口を撫でられる。まだ不動自身の指が一本入っただけのそこ。
 久遠は片手を引き寄せるとその中に唾を吐き再び不動の後ろに触れた。
 指先が妙に丁寧に撫でるので、不動は不意にもどかしくなった。
 自分は、別に痛いのは慣れているのだ。
 セックスとは血を流す行為だ。何をしようと無駄なのに。
 もどかしさは苛立ちも伴い、不動はせめてその感情を押し殺して、好まれる切なさをまじえ久遠の耳元に囁いた。
「早く入れろよ」
 しかし久遠は勿論のこと、か、返事もせず丁寧にそこを探索する。
 あまり弄られると、今は触られてもいない前にむずがゆい痺れが込み上げる。
 何とか我慢しようと不動は久遠の顎や耳に噛みついた。
 それでも久遠の指は地道にそこをほぐすことをやめず、とうとう根負けした不動が首にしがみつくような感じで前にのめった。
 その時、掠れた熱い息が耳元に触れた。
 ああちゃんと興奮しているのか、と不動は頭の一部で妙に安堵し、久遠のそれに手を添えた。
 熱い息を吐く。互いに顔を見合わせる。不動は手で久遠をいざなう。
 入れられる瞬間、不動は自ら瞼を伏せた。


 まさしく肉体関係、だ。
 場所をベッドに移すようになったが、言葉はなく互いの息を聞き取り、表情を見ないですむようキスをする。
 時には久遠が不動を一方的にイかせて終わることもある。
 自分勝手な、身体を満足させる行為。
 けれどもその夜、不動は自分の部屋のベッドの上で膝を抱えじっと考えていた。
 合宿所には、ほとんど人が残っていない。今日の韓国戦に勝利し本選出場を決めたメンバーは家のあるものはほとんどが帰宅していた。残っているのは遠方からやって来ている選手と、監督の久遠。
 暗闇の中、不動は目を見開きじっと闇を凝視する。が、その目の中には今日の試合が映っている。
 後半30分間。
 出たくてたまらなかった試合。
 久遠がベンチの上の自分の名を呼んだ。
 初めて踏む天然芝のピッチ。
 公式戦のボール。
 欲しかったもの。それを手に入れるためだけに生きてきた。
 ピッチを駆け、ボールを蹴り、同じユニフォームを着た選手に自分のパスが届く。パスが繋がりゴールの前まで運ばれる。
 勝利が、あった。
 不動は瞼を閉じ、またゆっくり開いた。何度目を閉じてもその光景は消えなかった。現実の記憶。自分の生きた現実の、本物のサッカー。
 身体中の細胞という細胞に熱の余韻が残っている。
 神経がざわつく。眠れるわけがなかった。
 立ち上がり、不動は部屋を出る。いつも以上にひっそりと人の気配のない夜の廊下を歩き、久遠の部屋に向かう。
 静かにノックをすると、やはり一瞬の沈黙の後で応えがあった。不動は部屋に滑り込み、後ろ手にドアの鍵を下ろした。
「…浮かれるのはまだ早いぞ」
 いつもと変わらぬ声。不動は足早に久遠に近づき、相手の胸倉を掴むようにしてキスをした。
 久遠は舌を出さなかった。ようやく唇を離すと彼は言った。
「勘違いをするな」
「何が」
 試合に出られたこと。ジョーカーと呼ばれたこと。
「俺が…切り札だって?」
 不動はもう一度キスをしたが久遠は頑なだった。彼はキスをやめると、久遠の足元にひざまずきベルトを緩め前をくつろげた。そう言えば自分がこの男にしてやるのは初めてだ、と思った。
 実力行使に出れば流石に久遠も反応する。不動は熱心に目の前に屹立するものを舐め、口に含んだ。カウパーの味も気にならない。むしろちゃんと刺激できているのだと、もしかしたら自分では気づいていなかったのかもしれないが不動は嬉しくなった。
 腰が疼く。自分のものにも触りたいが我慢をした。出されれば飲む。飲んでやっていい。
「…不動」
 ようやく久遠の声が聞こえ、肩を掴んで引き離される。不動の唇からは透明な液体が糸を張り、切れて涎のようにだらしなく垂れた。久遠の手はそれを拭い、そしていつもの目が不動を見下ろした。
「立て」
 命じられるままに不動は立つ。
「服を脱げ」
 不動はかすかに息を吐いた。焦らず一枚一枚服を脱ぐ。下着を脱ぐと、自分のそれは半ば立ち上がりかけている。
 ライトスタンドが斜めから照らし出す不動の裸体を、久遠はじっと見つめた。不動はそれに応えてじっと佇んだ。
 膠着した空気を裂くように久遠の手が伸びた。
 腕を掴んで引き寄せられる。久遠の唇が胸に触れる。
 久遠は不動の身体中にキスをした。それは熱にうかされたものではなく、一つ一つ丁寧な仕事のようだった。
 ベッドに横たえられる。いつも唾で湿した指で触れるそこを、久遠は自分の舌を使って舐めた。不動は自然と湧き起こる声を隠さなかった。
 挿入の瞬間また自ら瞼を伏せると、上から不動と呼ぶ声がする。
 瞼を開くと久遠が顔を覗き込んでいる。乱れた前髪の隙間から左目も自分をしっかりと捉えているのが見えた。
 わずかに泣きそうな顔が久遠の目に映った。不動は大きく息を吐き、久遠は息を殺して腰を進めた。
 入った。全部入った。自分以外のものの熱を身体の奥に感じる。不動は手を伸ばし久遠の首に捕まると、相手の目を見つめた。
「監督…」
 そうではない、と口に出した瞬間思った。その自分の欲求は、これまでにないものだった。不動は熱い息と一緒に言葉を吐く。
「あんた、なまえ」
 初めて久遠が驚いたような表情をした。かすかな変化だったが、不動はその表情を初めて見た。
 なまえ、と不動が繰り返すと久遠は不動の耳元に口を寄せ秘密でも語るように囁いた。
「道也」
「…みちや」
 熱が、動く。身体の奥で。
 不動は何度も、道也、と久遠の名を呼んだ。呼び続ける内に何故だか笑いが込み上げてきたが、実際にはそれは涙と一緒にこぼれた。
 久遠の、不動、と呼ぶ熱い掠れ声も何度も耳をかすめた。
「明王」
 不動は首を仰け反らせ、天井を仰ぎながら言った。
「あきお」
 久遠が繰り返す。
 また笑いと一緒に涙がこぼれた。不動は両手で久遠の頬を挟み、引き寄せキスをした。


 羽根布団の柔らかいぬくもりが身体を包んでいる。さらさらと触れるそれに自分は裸だと気づいた。
 すぐ側で寝息が聞こえる。薄く瞼を開ける。夜明けの近い淡い闇の中、裸の男が自分を抱いているのが分かる。
 穏やかではないが静かな寝顔。
 久遠道也。
 不動の身体は彼の腕の中にすっぽりと収まっていた。
 規則正しい寝息。まだもう少しは目覚めないだろう。
 昨夜の記憶が羽根布団にくるまれたぬくもりのように穏やかに身体に染みこんだ。不動は久遠の裸の胸に鼻先を押しつけ匂いをかいだ。汗の匂いがする。これが久遠道也の匂いかと思う。不快ではなかった。
 久遠の手が、無意識だろうかわずかに抱き寄せる。
 セックスの後、そのまま男と眠った初めての朝。
 自分の隣で眠る男の胸にキスをした初めての朝。
 羽根布団の下、セックスをした男と迎える初めての朝まで、まだほんの少し青い夜が残っていた。
 不動は久遠の腕の中で柔らかく瞼を閉じた。



2010.11.4