under the duvet #4.5







 目覚めて瞼の裏に蘇る記憶か、悪夢の続きか。昼夜のない浅い眠りが続く。不動は時々起き上がり、シーツを引き摺って重い身体と共にユニットバスの狭い浴槽に突っ込んだ。
 ワンルームは、今は誰のものか分からない。ビルは焼けてしまったし、男達の姿も街から見なくなった。ただ鍵だけは不動の手元にあって、誰にも干渉されない狭いコンクリートの空間に眠れるだけのベッドがある。硬いスプリング。毛布もない。
 冷たいシャワーに打たれながら、不動はシーツの匂いをかいだ。
「…くっせえ」
 ベランダの壊れた洗濯機の中に放り込み、蹴りを一つくれる。
 それから再び眠った。むき出しのマットの上、裸の膝を抱えて海水の匂いのする夢を漂った。
 気力をなくした日々がどれほど続いたのか、いい加減に目覚めてみる景色が見たいと思った。それが光に照らされたものでも、夜の闇でも。それにコンビニの乾きかけのおにぎりも飽きたのだ。マクドナルドの脂っこいハンバーガーが懐かしかったし、小鳥遊が目の前で食べるのに自分は一度も口をつけなかったドーナツの甘みも口に入れてみたいと思った。
 久しぶりに服をまとい、玄関から一歩踏み出した。
 暗い。しかし真夜中ではない。不動の鼻には早朝の匂いが漂っているのが感じ取れた。わずかに潮の匂いを含んだ、夜明け前の匂いだ。どの店も開いていないだろう。マクドナルドが24時間営業になるのは、この地方都市ではまだ先の話だ。
 ふらふらと足の向くままに歩いていると、どこかの店の裏口が開いてかつて自分が顎で使っていた顔が数名覗く。彼らは足を止めて自分を見た。
 そこに浮かんでいたのは嘲笑だった。
 手が伸びてくる前に一番近くにいた顔を蹴落とし、残りを拳を使って壁に叩きつける。
 財布から札だけを抜いて投げ捨てる。
 弱くはない、と心の奥から声がする。本当だろうか?と問う声もする。
 弱くなければ証明するだけだ、生きることで。自分一人でも生き延びる。元より仲間などいなかったのだから。
 今までと変わらない。たのみ得るのは自分の力だけ。
 ずっと一人だったのだから。
 日が昇り、朝早いマクドナルドでマフィンを齧りながら街路を見下ろすと、朝練に向かうらしいジャージ姿を何人か見かける。
 何日ボールを蹴っていないかを、不動は数えなかった。
 久しぶりのマクドナルドは胃にもたれて、部屋に戻ってすぐ吐いた。


 エイリア事件の顛末はリアルタイムで知ったものではない。不規則な眠りの後歩いた街路に散乱する号外で知った。事件が終わろうとも不動の生活は変わらず、暴力による生存の延長、それを一日ずつ繰り返すだけだ。
 一度だけ埠頭を訪れた。潜水艦は影も形もない。やはり灰色の空が低く垂れ込めて、海には冷たい風が吹いていた。旗のなびく音を聞いた気がしたが、カモメの高い鳴き声が幻聴を切り裂いた。隅に壊れた単眼ゴーグルと割れた仮面が転がっていた。
 遠い昔の出来事のようだった。サッカーのために頭も身体も全時間を惜しみなく使った日々。ロクな試合をすることができなかった。
 あの時、自分は何を考えていたのか。勝つことだけを? それとも影山の復讐に自分の鬱憤を重ねていたのか。違う、影山の復讐などどうでもよかったはずだ。ならば何故、佐久間に。
 不動は胸の上に手を当てる。あのみなぎる力も何もかも意味がなかった。俺はサッカーがしたかったはずなのに。あの試合は何だったのか。
 海から強い風が吹きつける。不動は目を細め、沖を見やった。ただ灰色の海が水平線の彼方まで広がっていた。ところどころに白い波。つんざくようなカモメの声。
 強い潮の匂い。
 足がコンクリートを蹴る。ボールはない。不動は海に背を向け、街への道を歩き出した。そこ以外に帰るところはなかった。汚い路地裏と、汚れた狭い部屋以外の、どこも。
 自分の道は光の中にはない。今は憧れる光もない。
 細い路地の奥へ足を向けた。
「不動」
 低い、男の声。
「不動明王」
 立ち止まった。立ち止まっただけだった。振り返らなかった。自分の前には影がある、自分の影が。背後には日が射している。
「不動明王だな」
 声は辛抱強く三度自分の名を呼んだ。
 不動はようやく振り返った。恰幅のよい人影があった。わずかに斜めから射す日にサングラスが光る。
 知っている。テレビでも、影山の部屋のモニターでも見た姿だった。雷門イレブンをフットボールフロンティア優勝まで導いた監督、伝説と謳われたイナズマイレブンの一人。
 響木。影山が憎しみと懐かしさを込めて呼んだ名を思い出す。
「もう諦めてしまったのか?」
 低く重い声が尋ねた。
 腹の底が震え、不動は苛立ちまぎれに返す。
「何を」
「世界を舞台にサッカーをしてみたいと思わないか」
 目の端を掠めてはいたFFIのニュース。日本代表が招集されたという報道はまだなされていない。
「お前の中に眠る本当の力を見せてみろ」
 一緒に来い、と響木は言ったが不動は黙って睨み返すだけだった。
 響木は長くねばろうとはしなかった。ただサングラスの奥から不動の目を見つめ、じっと考えたようだった。静かに口が開き、若干和らいだ声が話しかけた。
「もし負けたつもりがなければ東京へ来い。チケットはお前の両親に預けておこう」
「……っ!」
 待て、と言おうとしたが響木の姿は明るい表通りに消え、不動はそこに踏み込むことができなかった。
 負けたつもりがなければ? 一体何に?
 両親。
 あの家。
 過去の姿は目を瞑っても消えないのに、たった今現在自分に両親が存在することを不動はほとんど忘れてしまっていた。今でもあの家に住んでいるのだろうか。二人で? 父は工場に出かけ、母は一日中俯いているのか。
 ポケットの中にはワンルームの鍵があった。不動はそれをぎゅっと握り締めた。
 日が暮れるまで裏路地から表通りを眺めていた。夕闇が迫り、街明かりがぽつぽつと灯りだす。不動はポケットから手を出した。拳はほどかれていた。鍵は手の中にない。
 街灯の下に一歩踏み出し、不動は躊躇いを捨てた。
 繁華街を抜け、人気のない住宅街の道を行く。それは懐かしい景色だった。一年半、決して足を向けることのなかった場所だった。不動の胸にあったのは懐かしさではなく背中から近所の視線の突き刺さる記憶で、彼はかつての日と同じようにただ真っ直ぐ顔を前に向け淡々と歩いた。
 似たような住宅の角を曲がり、白いブロック塀と芝生の庭の見える、そう俺の家は建売ではなく自分が生まれる以前に両親が買ったもので、周囲とは塀の柵の形が違う…。
 明かりが灯っていた。
 窓に、玄関に、暖色の電灯が光っていた。あの窓はリビングだ。いつもカーテンを固く閉ざしていた窓から明かりが漏れている。
 不動は玄関先に佇み、息を整えた。元より乱れていなかった呼吸が今は妙につかえ、心臓が鳴った。
 インターホンを押した。
 それを待っていたかのようにドアが開いた。
「明王!」
 母の顔が目の前にあった。その向こうに汚れた作業着姿のままの父がいた。
「おかえりなさい。夕飯、まだでしょ?」
 母の言葉が手を引くように不動を中に誘った。不動は靴を脱ぎ、反射的に漏れそうになったただいまという言葉を口の中に閉じ込めた。
 テーブルの上には夕食の用意ができていた。不動は少ししか食べなかったが、その倍も食べる母親はひっきりなしに喋っていた。
 数ヶ月前、ちょうど潜水艦が沈没した後、警察の人間と真・帝国学園の教師――と名乗る人間――が現れ、不動はサッカーの能力を買われ現在は寮で生活をしていると告げたそうだ。
 転入の手続きをしたのは自分だと、父は母の勢いに押されてか言葉少なに言った。
 それから響木のスカウト。片づけられたテーブルの上に母はチケットをのせた。
 日付は明日になっている。不動はそれを手元に引き寄せた。
「俺、行くから」
 ぽつりと言った不動に母は何度もうなずいた。父は目を細め、ただ黙っていた。
 母が旅行の支度とクローゼットを引っ掻き回している間に、父はそっと出て行こうとした。
「どこ行くんだよ」
 父は声を小さくし、父さん今な、と言った。
「隣の市に新しくできた工場を任されてるんだよ。お前と同じ寮生活で、ここにはほとんど帰れないんだ」
 そう言って表情を緩める。
「母さんには、それくらいがいいみたいだ」
「……あのさ」
「金のことは気にするな。応援には行けないがな。ちゃんと金も返しながら生活できている」
 父は不動に手を伸ばそうとし、それを引っ込めた。
「お前は偉いな、明王」
 表に出た父を、不動は後を追った。
「俺は母さんを助けられなかった。泣かせて、傷つけて、苦しめた。でもお前は、俺が思いもしなかったくらいサッカーが上手くなって、特待ですごい学校に入って、日本代表に選ばれて」
 違う、俺は。
 まだ選出された訳ではない、またそれだけではないと思ったが不動は口を閉ざす。
「母さんはお前のことを心から喜んでいる。あんな笑顔はもう何年も見たことがない。明王のお蔭だ」
 違う、俺は。
 力を手に入れた、一人での生活。
 俺のやってきたことは、間違っていない。
 でも俺の身体は。
 噛み砕いたSDカード。この世に証拠は残っていない。
 違う俺は。
 本当は。
 俺は。
 父は振り向き、そうだ、と言った。
「お祝いに新しいサッカーボールを買ってやろうか、必要だろう」
「いい」
 不動は短く答えた。
「持ってる」
 ワンルームの床に転がったボロボロのサッカーボール。
「…そうか」
 頑張れよと言い残し、父は住宅街の道を時々街灯に照らされながら遠ざかっていく。
 家の中からは母が明王を呼ぶ声がした。着替えがバッグに入らない、と言う。もう一年以上もここには戻っていないのに、と不動は思いながら声のする部屋へ向かった。クローゼットの中にはまだ封を切っていない真新しいシャツや下着が並んでいた。今の自分に合うサイズの。
 何かと構おうとする母は、しかし興奮しすぎたのかソファに横になり眠ってしまった。不動はリビングの明かりを落とし、クローゼットの中の真新しい服を二、三着バッグの底に詰めた。



2010.11.3