under the duvet #4
すとんと眠りに落ちる。 ぱちんと眠りから覚める。 終日人工灯に照らされた通路を抜け、上に作られたピッチに出る。 強い潮の香。低い曇天の下を渡る冷たい風に旗が音を立ててなびく。 靴の底で人工芝を踏みしめる。いくつものサンプルから最終的に選んだのは影山だが、確かに悪くない。 不動は真新しいボールをゴールに向かって蹴り込んだ。 寝ても覚めてもサッカーのことしか考えていない。 自分の頭を、身体を、時間をフルにサッカーのために、サッカーのためだけに使っている。選手を集め、特訓をしレベルを上げる。実際、影山の提示したメソッドは不動の性に合ったし、学校のサッカー部レベルだった選手達にめきめきと力をつけさせた。 呼吸のたびに自分に力が湧いてくるのが分かる。自分の望んでいたもののために肉体を用いることがこんなにも力になるとは不動は驚嘆し、満足した。これならば本当に、ブラフでなく鬼道有人にも勝てる自信がある。 熱の残るボールを拾い上げ、不動は口元に笑みを浮かべる。 今日も埠頭に接岸したら街に出て選手のスカウト。小鳥遊にもそろそろこの潜水艦に慣れてもらわなくては。それから帰ってきて特訓、特訓、ひたすらサッカー。 与えられたばかりの真・帝国学園の制服を脱ぎ、上陸までの時間を不動はボールを蹴って過ごす。三々五々にメンバーが集まり、練習が始まった。 裏路地で見つけた小鳥遊を壁際に追い詰め、俺とサッカーしようぜ、と囁くと彼女は相変わらず不機嫌そうな顔で、誘い方がなってないのよ、と言いながらも不動の誘いを断らなかった。 「あたしも腕試ししたかったところだし、いいわよ。乗ってあげる」 「じゃ夕方に埠頭で待ってろ」 「…一緒に行くんじゃないの?」 「俺は仕事があるんでね。こう見えて忙しいんだよ」 小鳥遊と分かれたのが昼過ぎ。今日は少し遠くまで足を伸ばしてみるつもりだった。だから街中で見覚えのある黒塗りの車を見かけても無視をした。 しかし車の方から不動に近づき、歩く速度にあわせてゆっくりと並走する。スモークガラスのウィンドウが下り、ここしばらく見なかった顔が出てきた。痩せぎすの男。最初の男、だ。 「おひさ、明王チャン」 不動は無視をするが、男は一方的に話しかける。 「ひでーじゃん、新しい仕事が入ったと思ったらさ、影山だっけ、向こうに入り浸っちゃってさ。お前の尻軽は知ってたけど挨拶もなしってのはひどいっしょ」 うるさい、と手で払おうとした。それより一瞬早く男の腕が腹に向かって伸びた。 「でも甘ちゃんなところは変わってないよね」 男が嬉しそうに言う。その瞬間、感じたことのない痛みが全身に走った。身体が凍りつく? 痺れる? これは痛みだろうか、ショック? 倒れる直前、男が握る黒い物体を見た。あれがスタンガン? 本物か。 意識が急速に薄れてゆく。 本当だ、男の言葉を肯定するのはシャクだが甘かった。サッカーづけの毎日で頭がハッピーになりすぎていたのかもしれない。油断したつもりがなかった、と思っていたのがそもそも間違いだ。大人が、あいつらが汚いということは、散々知り尽くしていたはずなのに。 気を失う中で見た夢だろうか。 それとも気を失う直前の思考を永遠のように感じているのか。 痛みもない黒く重い闇の中を這った。 身体が重い。骨から重たい肉が剥がれて落ちる感触。 不快感が蘇る。 気持ちが悪い。吐きそうだ。 熱い。痛い。肉体の感覚が蘇る。 骨だけの身体じゃない。生きている。けれども腕も足も自由に動かない。 瞼が開かない。重い。縫いつけられた? そんな脅しを見たことが。 ああ、あいつら汚い手を使って。効果的な暴力を使って屈服させる。セックスなんか気持ちよくなかった。 気持ち悪い。カウパーの味。何でそんなものを覚えているんだろう。 くっせえ。絶対洗っていないに違いない。 どこかから声がする。ぼんやりと膜の向こうから聞こえてくるような。 うっわキタネー吐いちゃったよ。 あ、それオレん時と同じですわ、やっぱ吐いたのこいつ。 だらしねえなあ。おいそろそろ起きてるかよ? おーい、明王チャーン? 意識が蘇る。自分の形を成す。そしてゾッとする。 俺は、今、何をされている? 不動は瞼をこじ開けた。最初は何も見えなかった。やがてそれが毛だらけの男の下腹部だと分かった。 「っていうかお前も相当スキモノだよな。ただの穴と変わらなくねえ?」 「そうでもねえかもよ。ほら、明王チャンお目覚め。おはよー」 おっと噛むなよ、と後ろから伸びてきた手が顎を固定させる。 どうすることもできなかった。後ろ手に動かない腕。足がどうなっているのか見ることはできないが、開かされたまま動かないのは分かる。内股が既に濡れる何かでひやりと冷たい。 目の前の男が不動の口の中に射精すると真横から強烈なライトが照らし出し、ビデオカメラのレンズがすぐそばまで接近した。 「いつもみたいにイイ顔で笑ってよ」 ほらほら、と声がするが不動は俯いて口の中に残った吐瀉物と精液を吐き出そうとする。 「おら吐いてんじゃねえぞ、飲め」 誰かの手が無理やり口を塞ぎ、呼吸することもできないまま嚥下する。 拍手をする音が聞こえた。男達が退くと奥のデスクに腰かけた男が笑わない目でこちらを見ていた。 ああ、あいつ。 不動の眦には自然、力が入った。 忘れもしない。借金の督促に押しかけた男の中でも一番の。あの日、幼い不動の手を掴んだ腕。金色の腕時計。父の肋骨をへし折った男。 「お久しぶり、不動明王君。随分、大きくなったねえ」 男はゆっくりと不動に近づき、不動はその時自分が事務所の床の上に転がっていることを知った。男はピカピカに磨いた革靴の爪先で不動の顎を持ち上げると、知ってたか、と言った。 「あの机、本当は俺の机なんだよ」 不動は靴の上に唾を吐いた。白く濁った汚い唾。 「くたばれ」 精一杯、綺麗な笑みを浮かべる。 「…ギャグ咬ませるか。リングギャグ持ってこい」 「口使えなくなりますねえ、残念」 「テメエのなら入るんじゃねえか」 「ひどいなーそこまで小さくないっすよ」 どっと笑い声が広がる。男は不動の顎を蹴り上げた。 頭が痺れたが、口の部分が輪状になった猿轡を咬まされそうになり、動かない身体で暴れた。 すると男は懐からナイフを取り出し、不動の腰に滑らせた。 「元気がいいな、坊や。子どもの内臓はイキがいいから高く売れるんだぜ?」 刃が。熱い痛みが走る。傷が、血が、ナイフが食い込む。 喉の奥が詰まった。 「おやおや泣かせちまったかな」 猿轡が咬まされ、頭の後ろでベルトが締められる。 痩せぎすの男がビデオカメラを掲げて楽しそうに、第二部撮影開始!、と叫んだ。 冷たい。寒い。 潮の匂いがする。 遠くで誰かが呼んでいる。 返事をしようと思ったが口がうまく動かなかった。瞼は薄く開いた。 夜の中にライトが? 白い光が照らしている。紺色の闇の中にすらっとした白い足が浮かび上がる。 短いスカートから覗くピンクのレースのパンツ。 それが消えて黒い袖が。 小鳥遊の声? 不動はもう一度意識を手放す。 今度は夢も見なかった。自分が眠っているという意識すらもなかった。ただ虚無の中を眠り続けた。 目覚めたのは二日後だったらしい。 潜水艦、真・帝国学園の中の自分の部屋だった。人工灯が青く枕元を照らしていた。腕は重かったが動かない訳ではない。ゆっくりと動かし、身体中を触る。どこもかしこも痛いが、骨は折れていないようだ。 顔は酷く腫れている。髪を剃っていない、と思い手を伸ばしたが包帯が巻かれていた。 身体を起こすことができた。足はふらつくが、手で壁を支えれば歩けないことはない。 通路には誰もいなかった。艦は潜水しているらしい。海の中にいる時特有の遠く響く音が聞こえる。不動は一歩一歩ゆっくりと歩き、階段の前で立ち止まった。上へ行けばピッチがあった。悪くない人工芝。真新しいボール。しかし不動はそこを素通りし、影山の部屋へ向かった。 パネルの数字を押し、スライドしたドアの向こうに踏み込んだ瞬間、無意識に身体が震えた。 影山はこちらに背を向けてデスクの上のモニターを見ていた。そこに映っているのは不動だった。汚い床の上で真っ白なライトに照らされた自分。手足を拘束され、猿轡を咬まされた自分が傷つき倒れている。影山はそれをじっと見ていた。不動は背後で閉じたスライディングドアにもたれかかり、なんとか身体を支えた。 どれほどの時間が経ったろうか。モニターには砂嵐が走っていた。影山はそれを最後まで見終え、SDカードを取り出した。 「不動」 冷たい声で影山は呼んだ。不動は返事をすることができなかった。ただ足だけを自動的に動かし、影山の前までやって来た。 影山にはほとんど表情はなく、サングラスに隠れた視線もただ冷たく見上げてくるだけだった。 終わりだ。不動は思った。もう終わった何もかも。 結局自分には力がなかったから。 見下されたまま。 食い物にされたまま。 「真・帝国学園の名を背負っての失敗は赦されない。二度目はないぞ」 影山はSDカードを不動の目の前に落とした。不動は慌ててそれを拾い上げ、床の上に膝をついたまま影山を見上げた。 「今後全ての障害は自分の力で排除しろ」 「あ、あ……」 「それは好きに処分するがいい」 不動は立ち上がり、デスクに手をついた。ぐいと影山に顔を近づける。そしてSDカードを迷わず口の中に放り込み、噛み砕いた。 力が欲しい。 悪魔に魂を売り渡してでも。 力が欲しい。 全てに復讐する強大な力が。 力が。 力さえあれば。 黒いプラスチックの欠片を床に吐き捨てると、それを見ていた影山は唇を歪めて笑った。 「エージェントがこれを持って来た。いいな、不動。真・帝国学園に敗北は赦されない。絶対にだ」 デスクの上でジュラルミンケースが開けられる。中には紫色に光る石が並べられている。エイリア石。人間の能力を超えて強化することのできる、影山が言っていた真・帝国学園を完成させるために必要なピース。 「私の切り札らしい働きをしてみせろ、不動」 不動はその一つを取り上げ、首からかけた。人工のものでもない不思議な紫色の光が胸の上に落ちる。 その刹那、不動の身体を歓喜が駆け巡った。 悪魔に魂を売り渡してでも力を得られるならば! 「総帥…」 囁き、不動はデスクの上に乗り上がる。 サングラスを外し、キスをするのを影山は拒まなかった。面白そうに不動を見ていた。 肌蹴た影山の胸に不動はキスをする。冷たい身体だ。そしておそらく不動自身が最も欲する身体だった。 影山は珍しく不動の身体に積極的に触れ、唇で吸いつきさえした。モニターの青白い光に照らされて赤い痕が残るのが見える。 細いがしかし強い腕に支えられ腰を振る。自然と声が上がった。思い通りにコントロールできない身体が仰け反る。 再生を終えたモニターはいつの間にかテレビのニュース画面に切り替わっている。エイリア学園の襲来。雷門イレブンの動向。それから目立たない地方ニュース。愛媛県内のビル火災。暴力団の事務所の入っていたそこが全焼したそうだ。 影山に抱かれながら不動は笑った。 * 二流だと吐き捨てた影山を信じられない思いで見た。不動はその先のことをよく覚えていない。 ピッチが崩れ落ちるのを見、今自分のいる場所もあちこちで火花が散って、立っていられないほどに足元が傾ぎ。 海水に飲み込まれ。 誰かの叫びを聞いた。 誰のものだったのだろう。影山の名を叫んでいた。 帝国の鬼道有人が頭を下げ。初めての試合。佐久間が皇帝ペンギン1号を放ち。それから。それから。それから…? 真っ暗な水の中、口から息だけが虚しくこぼれる。 不動は泡の立ち上っていく先を見上げた。 暗い、暗い、灰色の。 しかし水面が。 手を掻く。 足で蹴ると身体がわずかに浮上する。 夢中で水面を目指した。エイリア石が首から外れ、水底深く沈んでいくのにも気づかなかった。それでも力はなくさなかった。 埠頭の端に泳ぎ着いた時、そこには自分以外のメンバーも多くいた。誰もがコンクリートの上にうずくまるようにして水を吐き、荒い息をついていた。 不動は仰向けに倒れた。灰色の空が低く垂れ込めていた。 もう力は残っていなかった。身体のどこにも、指一本動かす力もない。 だが、不意に誰かが笑い出した。 笑いは小さく、仕方もないように、しかし段々に広まっていった。 不動はわずかに首を傾けて笑い声のする方向に目を向けた。 独創的な髪型がすっかり崩れてしまった小鳥遊が笑っている。いつも髪に隠れている額の側にはハート型の小さなタトゥーが入っている。 目座がゴーグルを外し、日柄は割れた仮面を握って笑っている。二人の目を見たのは数ヶ月ぶりだ。 郷院も竺和も強面を売りにしている奴らまでもが声に出して笑い、その笑いの中心にいるのが化粧がすっかり取れて素顔になった比得だった。小さな目に口だけが大きくて、地味なような、バランスのおかしい顔。 真・帝国学園に入りエイリア石で強化してしばらく見なかった、否、それ以前だって見たことのなかった無防備な年相応の笑いだった。 不動は拳を握り、歯を食いしばって立ち上がった。不意に笑いが絶え小鳥遊が、不動、と呼ぶ。しかし不動は振り返らなかった。 彼の中には笑いは起こらなかった。 何も起こらなかった。 心は初めから胸の中になかったかのように、身体は冷たく無感動だった。 何にも目をくれず、何も聞かず、ただ歩き続け。 不動明王は姿を消した。
2010.11.2
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