under the duvet #2







 地方のありがちな中流家庭を襲った悲劇は地元では割と知られていた。
 不動の中でもあの頃の出来事は一秒たりとも記憶の中で掠れさせはしない。あの生活が始まってからの日々は、次の朝自分が強者たり誰かを食い散らかすために必要な記憶だからだ。
 そう、あの日々の出来事は地元では割と知られていた。借金取りとはつまりカタギの男達ではなくて返済が遅れれば昼夜を問わず黒塗りの車で乗りつけ、チャイムが鳴り響く、ドアが叩き鳴らされる。罵声が響き、父は必死に頭を下げる。母は自分を胸に抱いて震えている。
 太い腕が伸びてくる。ピシッと糊の利いた袖から金色の時計が覗く。幼い不動が一瞬それに気を取られると、太い腕はそのまま不動の細い手を掴み外へ引き摺り出す。
 母親が悲鳴のように名前を呼ぶ。
 それが聞こえた瞬間、不動は火がついたように泣き出す。頭上で男達の声が聞こえる。父が男の手をもぎ離し不動を取り返すが、その代わり男たちに殴られ蹴られる。ピカピカに光る革靴が狙いすまして父の身体に重く食い込む。母親の手は不動の目を隠しきれない。不動は一部始終を見ている。
 近所での評判は勿論悪かった。視線は子どもの不動に対しても容赦なかった。小学校での扱いも同様で、肉体的に傷つけようとするいじめは不動の仕返しがどういうものかを知って以降行われることがなかったが、代わりに無視、孤立。陰口も勿論、自分の聞こえないところであっただろう。
 しかし両親は、父は、家を売ることも、越すこともしなかった。また不動も学校を休まなかった。
 毅然としていた? そこまでの心意気であったろうか。ただ学校を休むという選択肢がなかっただけかもしれない。母は一日家に閉じこもって俯いていたし、父は新たに見つけた工場の仕事でいつも夜遅かった。家には定期的に男どもが脅しにくる。ただ、学校での仕打ち程度なら当時の不動にも太刀打ちできたのだ。
 それに学校へ行けばサッカーができた。
 休み時間に誘われることはない。しかし体育の授業なら別だ。教師は一応生徒達を平等に扱うことを目標にしているし、クラスメートも授業中にあからさまな無視はできない。それに不動をチームに入れれば、勝てたのだ。特にサッカーでは。
 サッカー。
 不動にサッカーボールを買い与えたのは父親だった。小学校に上がった年の誕生日。父は運動神経は並だったのだろうが多分自信がなくて、野球のキャッチボールより球が大きいから自分と子どもでもやり易いだろうと、そう考えたらしい。狭い庭でボールを蹴り合い、芝が剥げると母に怒られるのもたびたびだった。
 小学校のサッカー部に入れたのは多分三年生くらいからのはずで、同じ時期不幸に見舞われた不動は入部したいと親に言うことができなかった。父も息子の相手どころではなかったから、不動は一人でリフティングを練習した。母が起き上がって夕食を作り始めるまで、父が工場の油で真っ黒になって帰ってくるまで、不動はいつまでもリフティングをして待つことができた。
 家族だった。一つの家に暮らしている限り。
 しかし母はいつまで経っても父を否定しあの悲劇を赦そうとしなかった。また父も疲れ果てて帰ってきては、そんな母をなだめることはできなかった。侮言は父の胸を素通りし、彼は冷たくなった夕食を食べて眠りにつくだけだ。不動もまたいつから「お父さん」と彼に声をかけなくなっただろう。
 不動は背が伸びた。そして自分には肉体的な力があることを自覚した。暴力の才能とでも表現されるようなものが彼にはあった。中学に上がり、不動のことを知らない他校区の学生やあるいは先輩から絡まれても、彼は一人でそれに対処することができた。つまり叩きのめして、二度と自分に歯向かおうなどという考えが浮かばぬよう胸に刻んでやること。人を痛めつける的確な方法を不動はずっと学んでいたのだ、あの日から。
 しかし腕力だけでは家庭を修復することはできなかった。むしろその力は無力でさえあった。
 不動は家には帰らなくなった。勿論、学校にもほとんどいかなかった。彼は居場所を求めた。自分の力を活かせる場所。自力で欲しいものを手に入れ、生きていける場所を。
 借金取りの運転手をしていた男が自分を見つけ、自活するの?偉いねえ、と言った時、不動はその男をとことん利用するつもりだった。彼らのやり口は知っているはずだったし、いざとなれば戦うこともできると、そこ数ヶ月の路地裏を渡り歩く生活で自信をつけていたから。
 もし捕まったとしても。
 最低でも何が起こるかを不動は知っていると思っていた。彼の脳裏には幼い日の記憶が擦り切れもせず鮮明に再生された。
 金がないんなら坊や貰っていこうか!
 子どもの内臓は活きがいいから高く売れる!
 逃げてやる。できるだろう。この街の路地裏は自分の庭のようなものだ。それに腎臓の片方なくなったって、死ぬ訳じゃない。怖がって線を跨がなきゃ、永遠に食い者にされる側のままだ。
 古いビルのワンルームを借りる。対価は払う。
 不動は契約をした。
 そしてワンルームのドアを開けた。抵抗むなしくベッドに縛りつけられるまで、それからほんの五分もない。

          *

 ポケットの金は乏しかったが、ケチることはしなかった。そんなことをして生きても意味がない。生は勝ち取るものである。コンビニのおにぎりで腹を満たし、次の算段をした。
 男は夕方仕事に出かけ、朝帰ってくる。日の昇っている間はずっと不動の部屋にいる。セックスは毎日ではないが、男は自分の思い通りになる身体を弄ぶことに味をしめている。病気とか持ってねえだろうな、と不動は今更心配をする。
 今朝はセックスをする代わりに、帰ってくるなり例の煙草を吸っていた。何か葉っぱが混じっているのだろう。男の視線はとろんと宙を漂い脱力した。不動は気づかれないよう、そっと部屋を抜け出した。
 あの部屋に固執するべきではない。他の武器が必要だ。もっと上の人脈。自分の力で自分のために確保できる場所。
 夜にならなければ活気づかない繁華街の裏通りの、ビルとビルの隙間のようなぽっかりと開いた黒い入り口が、見えた。不動は足を止めた。今まで大して気にもしなかった場所だ。地下へ階段が伸びている、何をしているのか知らないし、今まで興味もなかった場所。
 そこから女が一人出てきた。
 女、と呼ぶような齢ではない。おそらく自分と同じ頃。公立の制服に見えるが、それと分からないレベルまで改造されている。スカート丈を見て絶対パンツ見えるな、と思った。
 何よりも特徴的だったのはその髪型で、脱色した上から人工色で染めているだけではなく、その造形を表現しようとして不動はようやく独創的という言葉を思い出した。不動と同じように路地裏を生活の主とする少年少女には独創的な見た目で相手を威嚇する者もいたけれども、目の前の少女はその中でも突拍子もなかった。
 不動は何となく少女の後姿を見送り――結局パンチラしなかった。あの丈は意外と鉄壁だ――、暗い入り口を見た。
 看板は階段の壁面に打ちつけられていた。タトゥースタジオ。へえ、と不動は少女の消えた方をもう一度ちらりと見る。タトゥーか。
 悪くない。
 躊躇いなく階段を下りた。足元も見えないほど真っ暗だったが、一番したまで降りると、ドアの形に光が漏れ出ていた。不動はドアを押し開いた。
 床屋のようだと思った。実際、その内装が残っているようだった。手前にはソファセットとテレビ、AV機器。病院で見るような衝立が奥を隠している。ベッドがあるように見える。
 ソファの上で、若いさっぱりした顔の男が咥え煙草の唇を歪める。テレビ画面には何かのロゴが映っていたがそれがフェードアウトすると急に男女のディープキスが映し出された。
「何?」
 若い男が言う。
「客」
 不動は答える。
「帰れ。ガキの来るところじゃねえよ」
「俺は客。それにガキならさっき出入りしてたじゃねーか」
 若い男は煙草をもみ消し、もう片手でリモコンをいじった。テレビ画面は男女のディープキスを映したまま停止した。
「ガキに関わるとロクなこたねえんだ」
「つれなくすんなよ。こっちは払う準備はあるんだぜ?」
 不動は言ってみせたが、若い男は苦い顔で舌を出し
「…なっちゃいねえ」
 と呆れた。
 不動はむっとしたがそれを隠し、男の向かいに座った。テーブルの上にはデザインのカタログや写真集が乱雑に広げられていた。
「強くて、シンプルなやつ」
「やめとけやめとけ」
 ひらひらと手が振られる。今まで長袖を着ているのかと思っていたが実は違って、若い男の手首までそれはびっしりと紋様が彫り込まれているのだ。
「な、坊やにはまだ早いんだよ」
 不動は黙ってリモコンを取り上げ再生ボタンを押した。画面が動き出し、シーンはディープキスから唐突に変わる。女優が下着の上から男の性器を撫で、まるでお菓子でも食べるように唇で甘く噛みついていた。
「お前、春からこの辺うろつくようになったヤツだろ」
 彫師は新しい煙草に火をつけた。
「喧嘩っ早いって評判だったけど、こっちもやるのか」
 女優は男の下着を引き摺り下ろし、屹立するペニスに舌を這わせる。
「慣れてないだろ」
 確信に満ちた言葉だった。不動が黙っていると、彫師は静かに笑い出した。それは次第に大きな笑い声になり、彼は急にテレビの電源を落とした。
「分かったよ。そう我慢すんなって。気づいてねえだろ。ひっでえ顔してんぜ?」
 真っ暗になったテレビ画面に映ったのは、長い前髪に蒼白の表情を半分隠した不動自身だった。
 彫師は笑いながら奥に消え、すぐ戻ってきた。手にはコーラを持っている。
「これ飲んだら家に帰れ。それが一番だぞ」
「帰る家なんてねえよ」
「意地張るな。こんな生活したってロクなこたねえよ」
 立ったままぷかぷかと煙草をふかし彫師は笑う。
 コーラは飲み干したが不動は立たなかった。彫師は煙草が短くなるまでフロアを歩いていたが、それがフィルターを焦がし始め再び不動の側に戻ってきた。
「俺のは健全な商売だ。やくざの仕事は管轄外だし、まして子どもに墨入れたなんて知れたら捕まっちまうわ」
「…払うっつってんだよ」
 髪の毛の隙間から不動はぎろりと見上げる。彫師は溜息をついた。
「誘うか脅すかどっちかにしろよ」
 三本目の煙草に火をつけ、彫師はガキなんざとブツブツ呟いていたが、鏡の前の椅子を叩いた。
「ほれ、こっち来い」
 不動は警戒しながら彫師に近づいた。
「強くなりたい? 一人で生きたい? そんなのあと五、六年もすりゃ嫌でもそうなるっつうの」
 彫師は不動の首にタオルを巻き、その上から大きなビニールのエプロンをかける。
「忍はなー、鋏でよかったんだけど、アレどこだよアレ、え? あれ?」
 知るはずもない不動に向かって話しかけ、ようやく鏡の下の引き出しから探し出した。バリカンだ。
 彫師は不動の後ろに立ち、両手で不動の頭を固定したままにやりと笑った。
「覚悟が欲しい? 相手を威嚇したい?」
「威嚇なんか意味ねえよ。強くなきゃ意味がねーんだ」
「じゃ、怖いものはないな?」
 バリカンのスイッチが入る。
 けたたましい機械音の中、不動の頭はみるみる涼しくなった。ただ丸刈りにされるのかと思いきや、彫師は意図を持ってバリカンを動かしているようだった。
「気持ちいいからって寝るなよ」
「誰が寝れるか」
 軽口を叩くことが、不動はできた。そうだ、これくらいでいい。自分の顔面に直撃する現実はこれくらいでなければ。
 男は剃刀と鋏で丁寧に仕上げ、うわ俺美容師免許取ろうかなと独り言を言った。
「忍のは凝りすぎた気がしてたんだよ。やっぱこれだな、シンプル且つパンク」
 エプロンが取り払われ、ばさばさと音を立てて払われる。毛くずが舞う。不動は手を伸ばし剃られたばかりの地肌に触れた。まさかモヒカンが自分の人生と関わるとは思っていなかった、が。
 ああ。
「悪くない」
 後ろで男が息を飲んだ。不動は鏡の中の自分に手を伸ばした。唇を吊り上げて笑う。形の良い弧。目元がほんのり赤く上気していた。


 夜明けに帰ってきた男は不動を見て仰天した。不動がこれからフェラチオにしろセックスにしろ一回ごとに金を取ると言うと予想通り怒り出したが、不動が手のひらで優しく股間に触れながら「サービスしてくれよ」と甘えると悪くない顔をする。不動はそのまま女優の真似をして下着の上から男のペニスにキスをした。笑顔の裏ではくっせえ、と吐き捨てながら。
 男がシャワーを浴びている間に、男の携帯電話を調べる。メールの内容などから判断した数人の名前と番号を記憶し、何食わぬ顔でベッドに戻った。
「…くっせえ」
 朝になったばかりなのに、もう夕方を待ちわびた。取り敢えずシャワー。鼻と口を徹底的に洗って、それからシーツの洗濯。
 もう一度あのタトゥースタジオにも行こうと思った。まだ、足りない。これから事を起こすには、そう、もう少し相手を刺すような攻撃性を。
 シンプルに、強く。
 赤がいいな、と不動は思った。シーツにも染みている血の赤だった。




2010.11.1