under the duvet #1







 聞き慣れぬ音が聞こえて、しかしこのワンルームには自分の他、男しかいないし、まるで別の生物の立てる音のような気がしたから不動はじっとベッドの上で息を殺し、ベランダに通じる窓や壁の向こうの気配に耳を澄ませた。しかしぼこっぼこっとわずかに水気を帯びたその音はどうも屋内から聞こえてくる。
 首を動かし備え付けの小さなキッチンに目をやると青いガスの火が見えた。片手鍋がかかっていて白い湯気も立ち上っている。その、何かを煮る音なのだと分かった。
 男は痩せぎすの背中を晒し、ベッドの下で煙草を吸っていた。
「よく眠れたかい、明王チャン?」
 返事をしようにも声が嗄れ、また身体はぐったりと重かった。
 すると男は煙草を指に挟んだまま手を伸ばす。すぐ目の前まで迫った赤い火に不動が思わず目を瞑ると、男は低く笑って不動の頭を撫でた。
「昨夜は頑張ってくれたし、まあお夕飯はサービスね」
「…夕、飯?」
「一日寝てたよー。まあ昨夜って言っても終わったの朝だし仕様がないかな」
 首を巡らせると壁の上の方にスヌーピーの絵柄のついた薄っぺらい掛け時計があった。夕方、四時近い。
 カーテンに閉ざされた向こうは暗いが、それでも窓枠の形にぼんやり明かりが入り込んでいて、明かりをついていなくても男のいやらしく笑う顔はよく見えた。
「じゃ、オレ仕事だから。家賃納入の際はまたヨロシクね」
 男の手は尻の上をポンポンと叩き、離れる。派手な柄のシャツに背中がかくれ、その後はもう男は振り返らなかった。玄関の扉がガチャンと音を立てて閉まり、不動は部屋に一人きりになった。
 溜息を吐き不動は身体を起こした。
 これが自分の望んだもの。自分の部屋。誰にも侵犯されることのない自分だけの場所。自分の身体の値段。
 払ったものは決して安くはない。否、今の不動にとってはその全てをもって支払ったに等しい。一晩中、身体を弄ばれた。まさかこんなところに、こんなことを、という衝撃は不動の脳をガツンと揺らした。こんな場所が、こんなことに使われるなんて。想像するはずもない。十三とは言え、ついこの前の春までランドセルを背負ってた訳で。
 身体を起こそうとしたが腕に力が入らず、ベッドから転げ落ちる。そのままフローリングの上に吐き、喉の奥を焼く苦い味に小さく悪態を吐いた。吐けるものは昨夜ほとんど吐いてしまったのだ。胃液は唇を伝ってぽたぽたと落ちる。不動はベッドからシーツを引き摺り下ろすとそれで口元と床を拭った。どうせこれも洗わなければくさくて寝られたものではない。
 洗濯機はベランダだと言っていた。すぐ目の前にビルの壁面の迫ったベランダ。しかし裸で出る訳にはいかないだろう。下着、服、と床の上を這うように探す。
 ああ、それより水。水が飲みたい。冷たい水が。
 不動は壁に爪を立てるようにしてようやく立ち上がった。水道から出る水はぬるかったが頭を突っ込み、蛇口から口づけに飲んだ。
 ごぼり、と音がする。
 小さな片手鍋の中に豆腐が一丁浮いていた。その豆腐の下から水蒸気の泡がごぼっと音を立てて浮かび上がるのだった。
「お夕飯、だあ?」
 ふざけやがって!
 しかし目下この部屋にはそれ以外食べるものはないのだ。
 不動はそのまま壁にずるずるともたれかかり、クソ、畜生、と思いつく限りの悪罵を口にした。しかしそのほとんどが男と言うよりも自分に向けられたものだった。知識がなく、正当な値段設定をできなかった自分への怒りと罵りだ。
 昨夜買った惣菜の発泡トレイの上に湯豆腐を上げ、不動は食べた。これが俺の望んだ、自分の手に入るギリギリのものなのだ。強くならなければ、なめられるばかり。
 しかし、もう自分は知った。身をもって学んだ。この身体が暴力以外の用途でもいかに有用であるかということを。そして昨夜知った行為には値段がつけられる。つまり自分は新たな武器を二つ手に入れた。身体の価値と知識。
 それにこの部屋があれば、あの家に帰ることなく自分の身を守ることができる。これで何をしようともあの二人に、特に母に関わりのあるものではない。傷を見咎められ、泣かれることもない。そう思っただけでも、不動は少し息を吐けた。
 ベランダの洗濯機は中に蜘蛛の巣が張っていた。スイッチを押してもうんともすんとも動かない。ただの粗大ゴミ。不動はそれに蹴りを入れ、シーツと重い身体を引き摺って狭いユニットバスに転がり込んだ。
 冷たいシャワーで身体を洗う。シーツと服はバスタブに浸けたまま、不動はむき出しのベッドマットの上に転がった。今、あの男が帰ってくれば、素裸の自分は襲ってくださいと言わんばかりだったが、それでも全身を重く沈めるような疲労感と眠気に抗えなかった。
 冷えた身体に痛みはしみた。腕も足もばらばらになりそうだ、そんな苦しみの中でも不動は一つのことだけを思った。
 サッカーがやりたい。
 日の照る下で思い切りサッカーがしたい。
 フローリングの上には惣菜の空トレイと、空っぽの鍋と、サッカーボール。
 俺が欲しかったもの。
 不動は静かに瞼を閉じた。




2010.10.28