月光と結界


 山は夜が深い。静寂もだ。耳の中が洗われる。清らかな夜気が滑り込みさわさわと鳥肌が立った。膚と夜着の間にもう一枚肌を纏ったようだ。田代は薄く目を開ける。紗のかかった視界は眠気と、内外を隔てる蚊帳だった。蚊帳は結界だとも言う。誰から聞いたとも覚えていない古い記憶は思考にも届かず意識の表面をわずかにさざ波立たせて、田代に安堵の息を吐かせた。正体の分からぬ遠い影はやさしく田代の眠りを覆う。
 廊下を誰かが歩く足音が聞こえる。裸足の足。軽い。トトト、と駆けた所を誰かが引き留めて立ち止まる。
「どうして走る」
 若い声がぎこちなく尋ねる。
「どうして」
 足音の主は繰り返す。
「廊下を走ってはいけない」
「ぼく、はしっちゃいけないの」
「君だけじゃない。俺も走ってはいけない」
「どうして」
 いけないことだからだ、と田代は胸の中で返事をした。しかし若い声は違う答えをした。
「起こしてしまうだろう」
 目を瞑っているのに、障子の向こうから指さされるのが見えた。氷を呑んだかのように田代の意識は目覚めた。立ち上がり、廊下の人影と対峙する。背後からは月の光が射す。明るい。満月だろうか。
「さあ」
 青年は田代より僅かに背が高いが、生まれつきの華奢さが真っ直ぐ指さし伸ばされる手首や子供に話しかけるために曲げられた項に垣間見えた。
「こっちだ」
「はい」
 子供の返事は素直だ。背を押され真っ直ぐこちらに駆けてくる。蚊帳が、と思った瞬間それは風に舞い上がり掻き消えた。
「おつきさま」
「あまり光を浴びるな。頭をやられるぞ」
 子供は言われたことはよく分からないなりに恐怖を感じたらしく二歩、三歩と縁側から後じさる。
「いや」
 恐怖から目を瞑り、頑なな様子で俯く。
「おいで」
 青年は努めてやさしい声をかけた。
「恐いことなんぞない」
「いや」
「来なさい。守ってやるから」
 子供は月に背を向けると頑なに俯いたまま小走りに青年の隣まで駆け寄って正座した。
「蚊帳を吊るんだ」
 青年は畳まれた薄青い織物を取らせる。
「蚊帳だ」
 青年は立ち上がって蚊帳を吊る。幾重にも畳まれた蚊帳の下、網にかかった魚のように目を丸くしていた子供は、自分を取り巻くものがそれが自分を守る柔らかな立方体になったことに感嘆の息を吐く。
「どら」
 青年は蚊帳を捲って滑り込み、子供の前に膝をついた。
「もう恐いこともないだろう」
 田代は瞼を開いた。頭は枕の上だった。うたた寝の時間はそう長いものではなかった。薄い紗に囲まれた景色は射す月光も、影も、変わっていない。
 耳には虫の声が届く。縁の下で鳴いているのか、近い。山の静寂は深いが、この季節、同時に音に満ち溢れてもいる。鼾も聞こえた。隣の座敷からだ。田代は布団から出した手で額を覆った。青年がその後、どうしたのかを知っていた。子供の頭を撫でたのだ。見上げた手首に何故か泣きそうになったのを覚えている。子供は田代自身だった。




2014.4.14