旧交


「無理が出来るのは若い内だけだ」
「二つしか違いません」
「そうだな」
 吉野は少年っぽい笑みを浮かべた。
「お前の方が老けて見える」
 彼の笑みは以前と変わらず完璧で、言葉に滲ませた悪戯っぽい響きと相俟って齢よりもいっそう若く見せた。爽やかな笑みだ。もう二時間もせず日付が変わる時間と言うのに。
「昔からですよ」
 田代は自分の鞄を掴んでドアの脇に立った。
「昔から老けて見られます」
「そうか?」
 首から名札を外して机に放り、男は田代の隣に並ぶ。
「帰ろう」
 電気を落とす。その瞬間、緊張しなかったと言えば嘘だ。しかし男は何も言わずドアを開け最後にセコムをかけて、疲れたな、と首を左右に曲げた。
「何か食っていかないか」
「帰ります」
「怖いか?」
 直截な問いに田代は相手の目をじっと見つめ返した。
 あの日に縛られることはない。
 時は過ぎた。自分は大人であり、立場があるのは自分以上に相手がそうであった。
 足を踏み出すと、その先を歩き出す。正直後ろから追われて歩かれる不快感に、今日ここまで消耗した精神が耐えられるとは思わなかったので安堵した。
 男は駐車場を横切って通りに出る。まだネオンサインもヘッドライトも明るい。
「車は」
「家に置いてきた」
「何故ですか」
「今日は飲むつもりだったからな」
 ハードな一日になることは前々から分かっていたことだ。
「それに金曜だ」
「帰ります」
 田代は繰り返し、バス停に爪先を向けた。結局そこまでの道のりは一緒だった。バス停の屋根の下で田代は立ち止まり、男は立ち止まって振り返る。
「残念だな」
「今更旧交を…」
 何となくその先の言葉を言うのは躊躇われた。きっと寄った眉根を見られたに違いなかった。男は真顔になり、指先で額を掻いた。無防備な仕草だった。
「今日なら謝れると思っていた」
 それを聞いて田代は奥歯を噛み締めた。
「その必要はないと僕は言いました」
 握りしめた拳を隠す。
「謝ってなどほしくない。あなたを赦すとか、あの時の行為を忘れたからではありません。僕の誇りのためにです」
「お前を馬鹿にする訳じゃないさ」
 ぬるい空気がわだかまっていた。吉野は掌で顔を拭い、思い出すように顔を仰向けた。
「俺にも心がある。お前の向けてくれた感情を蔑ろにし裏切ったことの後悔に苛まれて眠れない夜もある。今すぐに土下座をして赦しを乞いたいと思うことも」
 これもエゴなんだろうな、と田代から目を逸らし足下に呟きかける。
「今更良い人ぶるのはやめろとお前は思うだろう。が、お前に倒れられたら明日から館が立ち行かない。夜くらいはゆっくり休めよ。何か食え」
 男の後ろ姿を田代は見送らなかった。言葉の半ばからバスのやって来る方角ばかり見ていた。それでも耳から這入り込んだ言葉が反響し、逸らしていたはずの思考に染みを作る。
 アパートに帰宅したがカップ麺を食べるだけの気力もなかった。冷蔵庫に冷や飯が残っていたので茶を沸かしてかけた。食べ終えた田代は常より重く感じる身体の傾くのに抗えず、そのまま畳に横になる。積んでいる本の背表紙が目についた。爪でなぞるとカタカタと軽い音がした。このまま眠る訳にはいかない。しかし目蓋が重い。まだ歯を磨いてもいない。電気も消していない。
 身体を引き摺るように起き上がった。布団を敷くのさえ難儀だった。横になった田代は頭から布団を被った。薄い布団に包まれた闇は白いような黒いような。田代は思考を一つ一つ剥ぎ取る。夜の闇に包まれて呼吸する自分一人になった時、ぼんやりとした明かりが見える。
 月明かりだ。
 意識がいつ眠りに溶けたかは覚えていない。