童貞とは何かを男たちは深々と考える
触れようとした。触れたかったのだと思う。でなければ手を伸ばすまい。 ――百年。 干乾びるな、と思った。すっかり干乾びた自分の身体を想像した。しかし百年後も青年の肉体は瑞々しい若さに満ちていた。座敷に積まれた本の間でかさかさに干乾びた自分の足から丁寧に足袋を脱がせる手がありありと想像できた。何故かできてしまい、何故…、と田代は俯く。顔が赤いのには気づいていない。 彼がこの足に触れた日が来れば、そうせざるを得ないだろう。足を許せば、もう身体を開いたも同じことなのだ。素足を振り返る。あな裏をなぞる。早速冷えている。 ――相手は童貞だ。 何度も繰り返している。許さざるべき理由は多くあった。男同士である。自分は年上すぎる。相手が若すぎる。だがそれらの条件を決死の覚悟で越えた夜がかつてあり、それを成したのは田代であり、田代の師だった。だが昼間の青年は違う。童貞だ。営みの何たるかを知らない。そんな若者に自分が何をできるのか。為せる行為が全て善いとは言い切れない。田代には不安がある。自分の中で童貞を捨てた日の記憶は褪せた写真のようで、在処さえ、どこであったろうかと頭の中の抽斗を引っ繰り返す始末だ。 童貞の価値について真剣に思索しようにも材料がない。田代はいつか捨てたそれに重きを置かなかった。では営みは。それを営みと知ったのは遅い。不惑を目の前にして初めて知った。師に導かれなければ知らぬままであったかと思う。行為はそれまで、田代にとって文字通り絆するものであった。字義の通りであった。縛るものであった。関係を縛る。肉体を縛る。肉体の行為が精神の契約となる。 袖を捲り、伸びた手を見た。歳を取ったと実感する。黒子が増えている。皮膚に弛みがある。手首から掌へ浮いた骨の形をなぞり、目の奥に山本の手を蘇らせた。頑健だった。しっかりと自分の足首を掴んだ。記憶の蘇る足首から背中まで、ぞくりと鳥肌が立ち上った。 決死の覚悟が必要だ。それをもって臨まれたら、田代も許さざるを得ない。だが許しても。 「童貞か」 口に出して呟く。己の内には遠い事実である。だがそれが目の前にある。 やり方など知るまい。否、どうであろうか。近年の若者がどんな猥談に興じ、どのような知識を得ているのか分からない。それとて男と女では身体が違う。そもそも受け入れる器を持たない肉体を相手にした行為である。それでもしたいものだろうか、と田代はちょっと自分の身体を見下ろした。見下ろすだに、初めての相手がこれでいいと本気で思っているのかあいつは、と怒りがこみ上げた。 「やり方も知らんくせに」 知るまい。分かるまい。行き着く先が悲劇であるのは火を見るより明らかである。こちらが準備したとて上手くいくはずがない。上手く導ける自信がない。それとも相手を横たえておいて自分が跨れば…、と考えたところで怒りは己に向いた。 ――馬鹿なことを考えたものだ! 急に淫蕩になった気がした。山本を求めて当たり前だったことが、弟子を相手だとどうしてこうもいかがわしく猥りがわしいものとなるのか。巡って山本に申し訳ない。田代は頭を抱える。自分から、などしたこともないのだ。 翌朝、目の下に隈が浮いている。やはり歳だと思う。 筆谷は珍しく着物姿で縁側に胡坐をかき煙草をふかしていた。 「珍しいですね」 「今日は君が洋装で来る気がしてね」 当たり、と煙草をはじくと庭に灰が飛んだ。吸いつける。火が燃えて、また柔らかな煙が吐き出される。 「お悩みのようだ」 「大したことでは…」 教室の入り口から板間に上がる。縁側の筆谷が逆光になる。まだ庭を向いている。机を出そうとすると、トントンと隣を叩かれた。 「まあ、ゆっくりしようじゃないですか」 「…はあ」 「こういう時、地の者ならこうする」 トントントンと三度、筆谷は叩いた。 「山本先生。お懐かしい」 「はい」 「寂しくなりましたか」 「それは…いつもです。寂しいと感じると、同時に先生がいらっしゃったことは紛れもない真実なのだと感じる。先生がいらっしゃったことを思うと、今お会いできないことに寂しくなる」 煙草を勧められぎこちなく受け取った。ライターの火を差し出す筆谷の手つきは慣れた仕草の心地よさがある。安心して吸い付けた。 「先生がいらっしゃったこと、今いらっしゃらないこと、紙一重なのです」 懐かしい香りの煙を吐き出し、田代は続けた。 「風に裏と表があるならばそのような。そこを吹いているのに手に掴むことができない。吹いたそれを涼しいと感じるのか冷たいと感じるのか、僕の心が無様に揺れるたびに変わる。風は変わらないのです。先生は先生のままです。僕はまだ未熟で…」 「不覚の士ですか」 「その通りです」 「君は先生を纏っているようだ」 「纏う…」 「皮を被っているという意味ではないよ。誤解しないでもらいたい。君の存在に先生の気配を感じるのだ。それは先生がいなくなって、繋がりの深かった君に先生の思い出や面影を探してしまっているのかもしれないけど。いや、回りくどいかな。ぼく、常々言ったでしょう。君に先生を紹介した時も言った。君は先生に似ている。やっぱり似ている。ぼくの看破したとおりだ」 「似て、いますか」 「気づかないでしょう。それほど君の一部となっている」 でも煙草の吸い方だけは初々しい、と筆谷は笑った。 正月以外の筆谷の着物に生徒たちははしゃいだ。年長は些かに警戒した。田代の洋装にしてもそうだった。何故か「いよいよ怖い」らしい。この評判は後で筆谷が教えてくれた。 「君は公務員を続けなくて正解だったと思いますよ。おそらく出世しない」 「酷い言われようですね」 額をトントンと、そしておまけにもう一回トンと叩く筆谷。田代は窓に映った自分の顔を見る。確かにこんな仏頂面の座った窓口には行きたくないし、デスクであれば尚更だろうが。 未練などない職場である。これもまた遠い日の出来事だった。あの音楽ホールは法人に払い下げられたが今もまだある。手が腕をさすった。無意識の仕草で田代も気づかなかった。筆谷は気にしなかった。 久しぶりに飲もうと言われる。断る理由がなかったので甘えることにした。座敷には絨毯が敷かれている。その上に卓袱台がある。 「四六野の土産ですよ」 「土産ですか」 「フランスに行った」 「フランスで、絨毯ですか」 「ペルシャ絨毯。骨董だそうだ」 「そんな高価なお土産を」 「人は時に無償の愛を与えたくなる。四六野にはそんな季節だったのだね」 卓袱台の上にどんと載ったのは焼酎である。得意ではない。だが飲む。筆谷と飲む酒は美味い。ただし田代は弱い。あっという間に顔が火照った。筆谷も頬はほんのりと赤いがいつもと調子が変わらない。 「筆谷さん、何故酔いませんか」 「君が弱い。だいたいこの土地の人は弱いね。ぼくは生まれも育ちもここじゃないもの」 「いつも、何処とはおっしゃいませんね。南方とばかり」 「隠しているつもりはない。熊本だ」 「熊本の、南部ですか」 「そうだよ。つまらん温泉町だったさ」 「故郷をつまらんはないでしょう」 「故郷だろうとつまらないものはつまらない」 「でもそこで一生の友と出会われたのでしょう」 「四六野ですか」 「北も、北の細君も」 「あれは友達だったのかな」 「酷い。言いつけてやろう」 それを聞いて筆谷は、あはは、と笑った。 「今日は楽しい酒だなあ。ねえ、田代くん。悩みなど吹き飛んだでしょう」 「悩みとは何ですか」 「いやだなあ、目の下に隈なんぞ作って出てきた人が」 「僕のは正しい悩みではない」 「悩みに正しいも間違っているもあるかね」 「僕の悩みは何にも益しない。解決したところでやはり益しない。徹底的に無益。僕の悩みなど絶滅して然るべきだ」 「駄目ですよ田代君、君は悩んでいる方が魅力のある男だから」 「何ですって?」 「悩む君の姿には暗い澱みがある、凄絶な冷たさがある、だが凍らせた傷口からなお血を吹き出すような悩める君の姿は生きているものの色気がある。生きて悩む人間とはこれぞという色気がある」 「そんなお世辞を…」 「お世辞なものかね」 筆谷は互いのコップになみなみと注いだ。 「今だから言いましょう。ぼくはね、先生が亡くなられた時、君、生きてくださいよ、と言おうとした。言おうとして止めた。これは先生の教えを継いだ君に失礼な言葉かと思ったのだ。でもね、先生の教えを継いだ君だからこそ儚くなるのではないかという不安もあった。まあ北も親しいし、北がいればね、あいつは君を殴ってでも死なせやしないだろうからとは思ったけど、でもあの時期、だんだん寒くなるあの季節、ぼくも寂しかったなあ」 「…おっしゃいませんでしたね」 「君はもっと寂しかったでしょう」 「でもあなたも悲しかったでしょう」 「ちょうどよかった。その具合がね、ちょうどよかったんです。悲しい人間が教室を開けて、悲しい人間が教室に通って、寂しさを墨に落として、あの静かな匂い」 ああ、と筆谷が息を吐いた。 「今も胸に迫る」 そしてあの頃を思い出すような沈黙が降りた。筆谷は酒を啜った。田代はコップに手を触れたままじっと動かなかったが、不意に思い出したようにそれを干した。 「筆谷さん」 「なぁに」 「初恋は…初めて…その…人と触れ合ったのはいつですか」 田代は真剣な顔だった。些か酔っていたが決断を持った問いかけをした。筆谷はそれを聞いてじんわりと口角を持ち上げた。みるみる笑顔になった。 「…もう一杯飲もう」 「いえ、もう」 「そうか、田代君が自分から色恋の話をするようになったか。よくぞ胸襟を開いてくれたねえ。これは祝い酒だ」 先生にも乾杯しなきゃ、と新しいコップに注ごうとするのを田代は止めた。 「やめてください」 「何故さ」 「少し…疚しいお話しなのです」 「それはそれは…」 いよいよめでたい、師に内緒でイケナイ話をしようと言うのだ、こういうのは大好きだ。筆谷は空っぽのコップを遠ざけ、それで、と自分のコップの半分を煽った。 「何があったね」 「まず筆谷さんは…」 「初恋か? 初恋ねえ。いつなんだろう。分からん。初めて抱いた女は女房だったけど」 「えっ」 「最初の女房だ。おれはまだ鍵町にいた。十八だった、結婚したのは。相手は持参金付きの女。一年で死んだ」 いつもの筆谷の表情なのに、平板な口調が事実だけをだらだら連ね言葉が終わる。 「正直、セックスなんかこんなもんかと思ったね。今となってはぼくも悪かったんだが」 平板な口調に冷えた耳に、次に滑り込んだのはいつもの温度である。田代はほっと息を吐く。 「歓びを知ったのはもうちょっと後だな。女郎買いもしたけど、やはり好きな女とやるのが一番だよ。好きなことなんだもの。君は?」 「遅いです。就職してからでした」 「そう。よかった?」 「あまり…。下手なんでしょう。やり方を知らない」 「誰だって最初は無知な童貞だ。ぼくもそうだった」 「僕もそうだったんです。これが営みだということを知らなかった。僕自身、あまり楽しくはなかった」 「彼女とは?」 「二、三年続いて、別れました」 田代は顔を顰める。どうした、と筆谷が覗き込む。 「僕は………」 「うん」 「…筆谷さんは…童貞を押し倒したいと思ったことがありますか」 おお、と感嘆の低い声を上げ筆谷は身を乗り出した。 「もう少し酔っていいかい」 「はあ」 「内緒の話をしようじゃないか。思ったことがないとは言わない。というか相手が童貞であれ何であれ自分のものにしてしまおうと思ったことがあるんだ。うん、田代君、これは処女を君がものにするという話とは違うのだね」 「あ……」 田代は口を開けた。筆谷の手がポンポンと肩を叩いた。 「すまない、今のは無粋だった。とにかく思ったことはある。どうしても欲しくなることがある。ねえ君、これはかの弟子のことでいいんだね」 肯く以前にがっくりと首が垂れた。そうかそうか、と筆谷が肩を抱いた。 「そんなに彼が好きか」 「違います。彼が僕に好意を寄せていて、僕は……、僕はもうどうしたらいいか」 「えっ。君は好きじゃないのか?」 「解りません…」 本当に解らないのだった。酒で箍が外れてもやはり自分の真意は見えなかった。寧ろ酔いで濁って余計に見えなくなったのか。 「関係はどこまで進んだ」 「いいえ、まだ何も…」 ふっ、と沈黙が降りた。寒々とした空気がどこかから流れ込んだ。筆谷が眼鏡の底から目を見開いている。ぐっと額が寄る。 「告白を、されたのかね」 「そのような意味の言葉は」 「憎からぬ返事を返したのかね」 「にべもなく」 「それでも向こうはめげないのかね」 「ええ」 「それで絆されたのかい?」 「…解りません」 また静かになった。しかし筆谷が煙草に火を付け、緊張は張る前に解れた。ふーん、と筆谷は鼻から煙を吐き、天井を見上げる。 「童貞を捨てたからと言って学ぶことがなくなった訳ではないのだ…」 取り敢えず、と筆谷はくわえていた煙草を指先に抓み、くるりとひっくり返して吸い口を田代の唇に押しつけた。 「Aから始めたまえよ、田代君」 そうだ、最初のところを忘れていたのだ。骨髄まで雷に打たれた気持ちだった。しかしおくびにも出さず、田代はもらった煙草を深く呑んだ。
2015.3.21
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