届かぬ素足


 先生、と呼んだ。あまりに小さな声で届くまいと思った。届かなければよいと思いながら声をかけた。しかし一歩近づくと、古書を枕に横になった寝姿があまりに整っているから、ああ、やっぱり眠ってはいらっしゃらないのだ、と若者は悔しく思った。膝をつくと、期酔の寝姿の半分が自分の影に隠れる。明るい日、影の色は濃い葡萄色だといつも青年は思う。美味そうな色だと思う。真夏の外を走らされた後は、影を飲めれば渇きも癒えるのにとよく思った。影の落ちた部分は液体に浸されたかのように、真夏の中に静かに沈む。
「先生、起きてるんでしょう」
 返事を求めながら心の奥では絶対に返事をしてくれるなと強く願う。叶うてか、期酔は返事をしない。瞼も動かさない。青年はそっと期酔の肩に手を置いた。その時ぱちりと瞼が開き、不機嫌な期酔の顔になった。青年は慌てて手を引っ込める。期酔はだるそうに身体を起こし、枕にしていた古書を抱いた。深いため息が漏れた。
「どうして起こした」
「起こすつもりは」
 触れたからだ。期酔はすぐに目覚める。触れる前から目覚める。分かってはいたものの。
「お邪魔をしました」
 生真面目な声が答え、期酔は表情から不機嫌を消した。いつもの無表情であった。立ち上がり、ぼそりと呟く。
「黙って横におればいいものを」
「次はそうします」
 それを独り言にはせぬとばかりに青年は言葉を刺した。肩越しに期酔が振り向く。
「上杉謙信曰く、勝つ方法は知らず、ただチャンスを掴むばかりだと言うことだよ」
「では、次こそ」
「次があるかな」
「先生も不眠不休ではもたないだろうから」
「寝込みを襲う気か」
「チャンスがあれば」
 青年が片頬を持ち上げる。期酔は目をそばめる。責むる眼差しに、しかし若者はひるまず不敵な笑みを湛えたまま言葉を最後まで続けた。
「そういうこともあるでしょう」
 手を伸ばす。その手が足首に触れるか触れぬかの刹那、期酔は畳を蹴るように歩き出した。
「百年早い」
「俺は百年待ちますよ」
「生意気な」
 本当に怒った声音で期酔の姿は廊下に消えた。