生意気な弟子と後朝
枕を抱きしめた腕がそれでも足りないと藻掻いて蒲団からはみ出し畳を掻く。余程酷く掻くその音が、夢中なこの頭の中にも響いた。息に焦りが混じっていた。尾に火を付けられて逃げる蛇が声の代わりに身体の内に溜めていた炎を吐き尽くすような切羽詰まった息だった。最早、膚もその下を流れる血液も火炎の色だった。目の前の背中を爪で一掻きするだけで簡単に裂けて、中から赤く煮え滾ったマグマが出てきておかしくはなかった。熱が肉も骨も溶かすのだ。崩れ落ちまいと支える膝は震えていた。腰を抱える腕にもそれは感じられた。 ――恐怖だ。 目を潰すような色香の熱に噎びながら頭の芯が一言囁く。この人は恐怖している。何かを恐れている。 逃がすかと夢中で抱き締める。また期酔の手は暴れた。助けを求めて縋った。シーツを裂ける程に握りしめ恐怖に耐えようとしていた。燃やされながら、溶けながら、逃げながらも期酔は己を御しようとしているのだ。だがもう確かでなどいられない。唇が悲鳴をこぼした。 「嫌だ…嫌です……、駄目です……もう…」 ずくんと腹の奥を刺される。いけない、このままではと必死で手綱を握りしめる。俺が先生を気持ちよくしたいと言ったのに。だが、もう目の前の身体は壊れそうだ。 ――こんな風に、人は…。 生きている人間の形を抱き締め、煮え滾る熱の、底のない最奥を探る。 「やめてください…これ以上は…やめて…」 早口に叫ばれた科白の最後は噛み殺す悲鳴と共に潰え、抱き締めた枕を震わす。その悲鳴を聞きながら、もう耐えきれるものではないと出口を求めていた熱を吐き出すと、自分のものも相手の身体に溶けてゆくようで意識さえ手放しかけた。このまま一つになってもいい、なるがいい、と望んだ。低く、浅く呻く声は枕を震わせていた。涙さえ混じっている。だがどうしても満足感ばかりでふわふわとした頭は考えることをせず、手が心地よい場所を探して抱き締めた身体を探った。脚の間のそれに触れて、達した後の力ない感触が愛しくいつまでも触れていながら、ふと気づいた時絶頂から間を置かない波が頭を真っ白に染めた。触れていないのだ。今、ようやく触れたのだ。途中から夢中になっていた。身体の奥でどろどろと熱の溶けてゆくのを追いかけ、相手を気持ちよくさせるいつもの手をとるのをすっかり忘れていた。それなのに、と蒲団の上に掌を滑らせると濡れたそれがぬるりと確かに触れた。期酔の身体が崩れ落ちる。動転して腰を支える腕の力が抜けた。崩れ落ちた期酔の上に自分の身体も落ち、そんな、そんな、まさか、と繰り返す。驚きと、本当かと疑う心が、確かに腕の中の身体も掌にぬめったそれも本物だと感じるにつれ、熱が幸福感に変わった。 「…好きです」 今こそ言うべき言葉を言うべき時だと耳元に囁く。「先生、好きです」 腕の中の身体が震えた。震える白いうなじに噛みつくと殺された呻きが相手の喉に渦巻くのが分かった。 期酔が答えるのを待ったが蒲団の上にはただただ沈黙しか落ちない。こちらも動くのが億劫でようやく掛け布団を引き上げたのが最後、彼の身体を抱き締めたまま、あっという間に意識を手放した。 まだ気づかなかった。気づいていなかった。この夜はそれだけでよかった。幸福であったからだ。期酔の言葉遣いが変わったことになど、気づく方が愚かであった。もう駄目です、と。やめてください、と。その後に続けて呼ばれるのは、自分が期酔を呼ぶのと同じ「先生」であることになど、永久に気づくべきではなかった。無知こそ幸福である。無知こそ魂を救う。ただし目覚めの意識の中、反芻される昨夜の記憶が、頭の中にその事実を露わにした。厳然として冷然たる事実だった。 まだ暗い、早朝の冷たい空気の下、目を開けて薄暗がりをじっと見つめた。腕の中の身体はいつの間にか浴衣を着て、寝相正しく隣に横たわっていた。目の前にうなじがあった。歯を立てた痕が残っている。今だ。たった今、誰か俺を殺してくれ、と心底願った。起きて台所に行き包丁を手に腹を割くには蒲団の外は寒かった。だが腹の底はもっと冷えていた。結局動けなかった。せめて夜が明けなければこのまま止まった時の中で死ねたら。いや、「先生」に首を落としてもらわなければならないだろう。悔しささえ生まれる先から氷の塊となって身体の中を転がり落ちる。 暗い朝だった。夜が明けたとは思えなかった。期酔はいつものように起き出して粥を作り始める。裸のまま期酔の背後に立ち、真っ直ぐな後ろ姿を見つめた。振り向かない。 「風呂を使わせてください」 「どうぞ」 初めて期酔が振り返った。 「構わない」 戸惑っているように見えた。戸惑うのはこちらだった。寡黙な足取りで背を向け、風呂で冷水を浴びる。空っぽの盥がタイルの上でガタンと硬い音を立てた。重く曇った空を波ガラスの向こうに見た。わずかに開くと息さえ苦しくなる色調であるのに、吹く風の冷たさが爽やかで鼻から喉に通り、生きる実感が全身に漲った。好きな季節だ。こんな朝が好きなのだ。現実を顔面に叩きつけるような冷たい空気の朝が、確かに生きる自分の肉体を感じさせて好きなのだ。痛む膚の指先、鼻の先、全身この皮膚の下みっちりと自分の肉と魂が詰まっているのを感じて感激するのだ。普段であればそういう朝だった。だから、わざと相手の反応を誘うような自分の不機嫌さに嫌気が差しもするのだった。 ――こっそりと逃げようか。 もう一度水をかぶり、己の肉体を見下ろした。肉と魂に満ちた身体だ。昨夜のそれが今は冬寺の鐘のように動かず垂れている。背後に足音がした。 「着替えを」 ガラス戸越しに声がかけられ、期酔の影は振り返った視界の端を一瞬掠めて消えた。着替えは縦縞模様の着物としか分からない。下着は自分の着古したもの、この旧い家に泊まってその都度、置いていったり忘れていったしりしたのを期酔が洗ってくれたものだが、着物はそれ以上に袖を通され、人の肌に馴染んでいる。着心地がいい。帯の締め方は期酔のそれを思い出してどうにか真似た。これは期酔の着物かそれともと考えることは止められなかった。だが顔に出すまいと決めた。朝粥の香りは微かに廊下に漂った。障子を開ける。雨戸の外された向こう、庭は松の深い沈黙が押し潰すかのような曇天を押し返す。凜とした静けさである。それを破って期酔が声をかけた。 「座りなさい」 「先生」 「どうした」 どっ、と重たい音を立てて期酔の眼前に膝をつく。 「先生の答えを聞かせてください。朝餉はその後です」 眼鏡の奥の眸が冴え冴えとこちらを見つめる。 「聞いて、逃げ帰りはしないか」 「飯はいただいて帰ります」 「分かった」 拳が飛んできた。避ける間もなかった。正面からそれを食らった。期酔も殴り慣れてはいない。人に手を上げることなどほとんどしたことがないのだろう。真っ直ぐに尽きだした拳の先が真っ赤だ。ぐっと引き寄せ、掌で摩っている。 「悔しい」 耳鳴りの向こうで期酔が言った。半分閉じた目で見上げた。鼻を押さえてはいるが痛いのは鼻だろうか、唇だろうか。熱い。血が出ているのか。 「長生きなどするのではなかったと後悔した」 切れたのは唇だ。触れられた感触がない。舌に血の味。期酔の摩る掌の下、拳は擦り剥けている。眼差しが険しくなる。だが一生懸命に目を見開く。あまさず見る。 「……こういうことを師に言わせようとは、君は本当に生意気な弟子だ」 「何を言ってくださるのですか」 白い手が伸びて鼻を覆う手を無理矢理掴んだ。 「君は生意気だ」 期酔が繰り返した。唇が切れた唇の上に触れた。なので感触は分からなかった。それでも見開いた視界の中で目の前に迫った相手の顔の、眼鏡の奥で神経質そうに震える目蓋が見えた。舌が血を舐め取るのも見た。 嗽をしてくる、と期酔は座敷を立った。振り返ると、きっと睨みつける視線が身体を縫い止めさせた。 「氷を取ってくるから座っておくように」 着物を汚さぬよう気をつけなさい、と怒った声が言った。 「それは僕の父の着物なのだから」 一つ、憑物が落ちた。 朝粥の前にちゃんと着席して待った。冷たく絞ったタオルと氷を渡された。 「先生、俺は…」 目の前で箸を付けるのに尋ねると、しみなければ食べればいい、と素っ気ない返事が返った。 「しみても我慢するというならそれでも食べればいい。好きにしろ」 しみた。その上熱い。だがもう全体熱いのだ。 殴られた傷もそのまま、表へ出た。曇天の空の下を掃く。寒さには相応しい、しかし季節外れの雪が舞い始めたのは昼の少し前のことだった。
2015.3.19
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