五月、武雄温泉に入湯す


 そういえばこの春はと記憶を溯れば展示会の準備やらでアパートと教室とお堀の美術館を直線で結び行ったり来たりしているような日々だった。また四月の誕生日を自分で忘れてしまい、山本から電話をもらい一緒にケーキを食べたのはつい昨日のことのように思い出せるが、もう一月以上も前のことなのだ。せっかく武雄に来たのだからと神社に参り、ご神木を拝み、ついでにと改修前の古い図書館に立ち寄って郷土資料を漁る山本に付き合っていればあっという間に夕方である。日は長くなった。しかし時計を見れば、もうこんなにと驚く。宿に戻って食事に風呂に。休みに来たはずがいつの間にか予定でいっぱいなのがおかしくもあった。だから、そういえば…、と思い返すに横になっていたところ肩先をちょいちょいとつつかれて誘われるのは実に久しぶりのことなのだ。
 山本の方も些か照れているらしい。いつもは悪戯っぽささえ滲ませて誘う人が、妙にそしらぬ顔で指先でつついてくる。明かりを落としても障子の向こうは薄ぼんやりと明るい。夜の街明かりだが、武雄には派手さがない。それが好もしいのである。少ない街灯と、向かいの旅館の提灯明かりか。障子は淡い月色である。
 身体を起こそうとしたところを山本が布団を剥ぐ。初夏の夜気は心地良い涼しさだ。あの奇岩の間を縫って街に下りてきた涼かと思う。襟元から滑り込む手は既に熱を帯びている。触れられるまま任せる。山本の手は首筋に触れる。こうして脈がどくどくいうのを互いの膚に感じると、しばらくは言葉も必要としない。
 裸の胸の上に、山本は手をのせる。次第に身体が傾き、額が押しつけられる。田代は相手の頭を手に抱いた。掌の下、短い髪はまだ少し柔らかい。山本が息を吐く。鼻が押しつけられ、獣じみた仕草で下から撫で上げられた。
 高揚を感じながら山本の帯を解く。すると山本が歯を剥き出しにして笑った気配。堪え性のないように感じられただろうか。しかしもう堪らず、こうして膚を触れ合わせたまま先生と呼べばそれだけで田代は浅ましくなる。最後に裸を触れ合わせたのも、受け入れたのも、いつ…。
「せんせい」
 舌っ足らずになりながら呼べば、宥めるように頬に口づけが降った。
「どうした」
「先生は平気なのですか」
 ふざけて耳を噛まれる。小さく声を漏らし抱きつくと、耳元の笑いは蝸牛に転がり落ちながら幾重にも反響した。笑いが静まり、頬に手を寄せられる。じっと、ぬくもりを確かめているのか。宵闇を越して視線は優しい。膚の上を優しく愛撫する。田代はゆっくりと呼吸を整え両腕を伸ばした。頭を抱き、抱き寄せ、目をそばめる。唇を寄せる。
 ごそごそと布団が足で蹴り遣られ、膚はいよいよ密着する。その瞬間を正面から迎えた田代は癖で顔を覆おうとし、腕を掴まれた。もう片手は布団を握り締める。自分の声を他人のもののように聞きながらようやく薄目を開ければぼやけた視界にも山本と視線の合うのが分かった。ねだる眸に男は応える。今度はしっかりと首に腕を絡ませ口づけを貪った。
 呼吸を合わせより深く交わる。潰えそうになるのを堪えまたじっと抱き合い、再び熱に浮かされる。まだ、と思ったが先に果てたのは田代だった。その時田代は自分でも恥ずかしくなるほど子供のように泣き唸り、実際に山本がこちらも自分の獣欲を何とか御しながら楽しそうに笑った。
「なんだ。嫌か」
「……僕だけ、嫌です」
「案ずるなよ。お前だけ先には寝かさん」
 俺がまだだ、と言われると心底嬉しく、まだ余韻に痺れる足を絡みつかせた。
 それから緩やかに、長く、それはいつまでも続くかのようだった。通う息、じわじわと満たされてゆくもの、絶えることのない大河の流れに我が身も自分を抱く男も魂も、溶けて一つになるような忘我であった。そう、自分の存在さえ消えてしまうような充足、終わりの気配はまだないのに、田代は急に泣き出した。それは先の羞恥を含んだそれではなかった。
「先生」
 田代は相手の背中に爪を立て強く抱きしめた。
「先生」
「陣基」
「ここにいてください」
 泣きながら、田代は懇願した。