問答無用


 無防備な表情はまま見ることがるものの、実際無防備な姿というものを見せるのは稀有である。裸身さえ、見慣れぬ。膚であるな、観じれば血潮の音が耳の奥でぞぞ、と音を立てた。
 残暑厳しい折である。秋分を目の前に日射しは衰えることを知らず、昼間の空気を真夏の如く染め上げる。野分の一つ、二つ、遠い海で生まれては消えるのが惜しく、いっそここまで来てくれれば暑さも攫ってくれるだろうが、と新聞の隅の天気図を見ては待ち侘びる。そのような九月である。去年よりも暑い、と若い田代が言うから歳の衰えでそう感じているものでもあるまい。市内の体育館から家に戻るまでまた一汗かいた。ただ水をかぶってもよかったのだが田代は風呂を焚いた。たっぷり熱い湯船に身を沈めればこれが正解だと分かる。
 耳を澄ませば廊下を歩く足音が聞こえる気がした。呼吸を抑えしんとさせれば、みしりと、摺り足の時々床の弱いところを踏む軋み。湯船から手を持ち上げ目を覆う。夕暮れ明かりに蓋がされる闇の中、白い足の甲を思い出す。田代の足は日に焼けておらず、白い。腕もそうである。項の少し焼けているのが夏だと思えるほどである。自分とは反対だ。
 みしりと。
 また踏んだ。
 山本は湯船から出る。このままではのぼせるところだったと、洗面台の鏡に映る赤い顔を苦々しく笑う。
 湯の方が熱いから風呂上がりは涼しい。しかしすぐに浴衣を羽織るには暑かった。下着姿でうろうろするのは師としての威厳がないが、暑さには敵わぬ。いやここは俺の家だ、文句など言わせるものか。と、下着一枚。さてはてここで強盗にでも入られたら間抜けな格好で死なねばならぬな。思い直したが浴衣は肩に引っかけるばかりだ。
 縁から入り込むのはあまりに微風である。今年はいつになったらこれを片付けられるだろうかと思いつつ扇風機のボタンを押した。
 正面から風に吹かれていると背後から笑う小さな声。
 振り向き、
「暑い」
 と言い訳する。
「先生」
 と田代は手で肩に触れて浴衣を示した。
「ローマの皇帝のようです」
 扇風機の風は浴衣をはためかせ、それを肩で押さえながら成る程と山本も思った。
「下知である。湯を使え」
「御意に」
 何をふざけているのだか、と自分でも笑いながら山本は浴衣に袖を通し帯を締めた。
 微風は不穏にぬるい。夕空が翳り、雨の降り出す気配をかいだかと思うと、急にきた。障子を閉め、ガラス越しに降る雨を眺める。雨は激しく、外の景色は白く煙る。瞼を閉じると雨音も遠ざかった。屋根の下の静けさが際立つ。そこへ水音が聞こえた。田代の、湯を使う音だ。
 熱を、感じないではない。が、立ち合いの余韻かと思われたものである。しかし立ち合いのそれが身に残ったものであればそう易々と鎮まるはずもない。田代が帯まで締めて現れたのに、心中安堵したのも束の間、風の当たる場所を替わり、首を反らして涼を浴びる様を見てしまった。
 白い喉に、微かに差す朱。
 考えるよりもまず腕が我が身に忠実であった。足を掴んで体重をかければ、思いも寄らなかったろう、田代の身体は簡単に後ろへ倒れた。どすん、と家が揺れた。後頭部が畳の上で音を立てる。
 反射で瞑った目が大きく見開かれ、自分を見る。真下から見上げる目は、真上から見下ろす山本の視線を受けていよいよ張り詰める。どさり、と脇に手を突く。田代は息を詰める。膝の裏に手を当ててぐ、と持ち上げればゆるく肌蹴ていた浴衣が大きく乱れた。
 雨が降りながらも障子の向こうはまだ仄明るく、持ち上げた足が影になる。薄暮の下、田代は見下ろす自分の顔をとっくと見たはずであった。喉元に緊張が走る。恐る恐る吐かれる息に、かすかに声のようなものが混じる。
「先生、」
 掠れた囁きが呼ぶ。いらえを返すより自分の帯を解けば、田代の喉がまた震えながら息を吸った。
 噛みつくと田代の神経の全てがこちらに向いて委ねられたのを感じた。事実、田代の眸はもう伏せられるか、瞼から覗いても山本を映すばかりだ。組み伏せられた者の黒い眸は、これが自分のものだと思うと喉が鳴った。どこも喰らいついてやりたくて堪らない。首筋に歯を立てると田代は喉の奥で唸り肩に爪を立てた。女のように泣くことを好まない。しかし神経の不意をついて快楽が滑り込んだ刹那、抑えきれなかった声が口の端からこぼれ出し、田代はいっそう泣きそうな顔をする。
 湯上がりの熱を纏ったままの身体はすぐに汗ばむ。口づけた首筋からは懐かしい匂い。昼の記憶は膚の内に生々しく残っている。血が充ちる。昂ぶるそれに手をあてて量れば、ゆけぬでもないか。すると熱を感じ取ったかそれまで爪を立てるばかりだった田代の手が伸びて、触れた。