あまり上手じゃなくて
熟し切った夏の熱気が八月の最後にぶら下がるのを耐えきれず落ちて、降った雨も止んだ。涼しいと呼ぶより空気は冷たく、湿っている。肩にかけられた浴衣の下だけ、膚一枚分ほど温かい。俯せたまま、田代は隣の男をそっと見た。先まで小さな声で交わしていた会話も止み、目蓋は閉じている。眠っているのかどうか、呼気だけでは分からない。閉じた唇と閉じた目蓋。伸ばそうとして躊躇った手で枕を掴み、悟られぬほどの溜息を吐いた。 裸で横たわるだけの夜。俯せた田代の背中を掌は這い、優しく浴衣を被せた。背中には秘密が隠される。指先の去り際に残した情欲や、接吻。痕跡は肉体に残り、だがそれを田代が見ることは叶わない。田代こそ山本にとっての隠された秘密である。袖の下に隠された陰だ。 もういっそ全て呑み込んでくださればいいのに。今度こそ伸ばした掌は胸に触れた。冷えた肌の下で、血の通う肉の下で、心臓は打っていた。触れられ声のように軋む肋骨の下で鼓動は絶え間なく打つ。 いつかそれさえ終わると山本は言う。 己もそれを知っているつもりである。 だが分かってなどいないのだろう。未だに不覚の士だ。 先生、と冷たい空気に掠れた声で呼ぶと返事は掌から返ってきた。田代は身体を起こした。肩から滑り落ちた浴衣が蒲団の上でぬるい息を吐いた。 指先に力を込める。跨がった膝で身体を支えたが骨が震えてはいまいか。深く息を吐き、少しだけ吸った。八月も最後の雨は夜の空気を洗い、目の前に仰臥する男の姿は眼鏡がなくともはっきり見えた。 「先生」 「早うせんか」 吸った息を止め唇を重ねる。時を数えることもできぬほどの間。須臾であれ、恒河沙であれ、終わりは訪れる。息を吐く、自分の耳元にも唇の離れる微かな音が届いた。確かに触れていたのだ。秒と表すのも野暮ったい。時は山本に触れている全ての膚に刺さるが如く刻み込まれる。 「すみません」 田代は囁いた。 「あまり上手じゃなくて」 山本の目が薄く開き、手が伸びた。頭を撫でられ抱き寄せられると田代の身体はそのまま崩れ落ち、仰臥する肉体にぴったりと重なった。 背中を越して腕が伸びる。衣擦れの音と共に引き寄せられる蒲団の下で、もう一度、と田代は囁いた。暗がりの下で。頬に寄せる手。腰を抱き寄せる腕。秘密は溶け合い、仕舞われる。 |