稲妻も蛇も怖くはありません、本当です


 蛇を見た。縁側の柱を伝い、するりと縁の下へ潜っていった。それを田代は黙って見ていた。
 ほんの僅かの間のことだった。山本が便所に立って、自分はふと濡れ縁を見たのだ。夏の空が急に曇り、降り出しそうな不穏が立ち籠めていた。するりと伝い落ちた蛇の身体は白ではなかったか。ぴしゃりと空が光り、息を止めた。沈黙の間が引き伸ばされる。田代は雲の縁輝いたのと、稲妻がめりめりと空を裂いて向こうに落ちるのを見る。どう、という音は腹に響いた。取り戻された時間の中に雨は降り出していた。庭がみるみる暗く湿った。
「とうとう来たか」
 背後からの声。隣にぬっと顔が出る。
「閉めますか」
「しばらく風を入れたいがなあ」
 打ち込む激しさに仕方なくガラス戸を閉めた。締め切る刹那、隙間から勢いよく吹き込んだ風に風鈴がりんと鳴った。音は涼しげだ。内は蒸し暑くはあるが、表の雨の心持ち冷えるようである。扇風機の音が耳についた。やれやれ、と山本がガラス戸の前にしゃがみ込んだ。
 急に沈黙が下りた。山本が便所に立つまでは話の途中だった。が、話の続きの戻る様子はなかった。手が物憂げにポケットを探る。煙草をくわえ火を点ける仕草も、妙に気が進まぬように見えた。
 濡れ縁の下に潜り込んだ蛇は山本の足下にいる。きっと。
 声をかけようとした瞬間、また空が光った。一瞬、縁の光景が、山本の背中までもが白い光の中の頼りない輪郭になる。雷光の刺さった目の見た幻だろうか。どん、とまた腹に響く音。まだ遠い。眼鏡を持ち上げ、閉じた目蓋の上を指で揉む。光りの残像は目蓋の裏に鮮やかだ。
「陣基」
 問いかけるような声だった。はい、と何故か小さな声で返事をした。目蓋を開けると山本はしゃがみ込んだまま、肩越しに田代を振り返っている。
「どうした」
 煙草を一口のみ、からかいの笑みとともに吐き出す。
「怖いか」
 次、光ったと思う間にぐわらぐわらと空の割れる音。電気が瞬いた、そうと考える間もない。火花を上げて消える。雷の落ちた余韻は地鳴りのようにいつまでも響き、ガラスが痙攣的にびりびり、びりびりと震えた。
 二人は沈黙を守っていた。天から急に落ちてきた狂騒は打つ雨に鎮められ、やがて静寂が訪れる。明かりが落ち、先ほどまで暗く沈んでいたはずの表の景色が明るく、ガラス戸の前にしゃがみ込んだ山本の姿はぼんやりとした影になった。
「いやはや」
 驚いたな、と山本はまた煙草を一口吸いつけた。田代は灰が落ちた、と思った。灰皿は卓の下であった。それを持って、と思ったが蹌踉とした足はすぐに歩くのを止め、田代は山本の背後に座り込んだ。山本が身体を捻る。
「まさか、おい」
「いいえ」
 怖くはない。震えている訳ではない。しかし先ほどまでの自分ではなかった。突然訪れた夕闇と雷鳴がさっきまでの自分と今の自分を断ち切ってしまった。話の続きでなく、ノートの続きでなく。蛇がするりと伝い落ちたその感触が首筋の、膚と肉の間を這う。しかし田代は無為な仕草でそれを払うことはしなかった。落ち着いた手つきで眼鏡を外し、そっと遠くへ置いた。
 山本の手が、田代に煙草をくわえさせようとした。指先が唇に触れた。一口、のむ。灰皿は遠い。手が寄り添い合い床へ伸びた。節穴から煙草が落ちる。赤い火は打ち込む雨に消えただろうか。蛇は逃げただろうか。それとも蛇が火を呑んだろうか。
 手が顎に添えられる。乾いた掌にかぎなれた煙草の残り香。ようやく少し震えた。指先から離れた煙を二人は呑んだのだ。火の粉が舞う。雨はガラス戸に打ちつけ、届きはしない。
 また乾いた熱が触れて、目を瞑った。瞑った目蓋の上を指がなぜた。そうやって溶けるような夕闇の中自分を味わう両手に手を触れる。相手の指先はまだ自分の目蓋や顎に触れているので、強く掴んだ。掴むといつもどきりとしてしまう、心の底の切なさをちくちくと刺す手首を強く。
 山本が尋ねる。
「嫌か」
「いいえ」
 首を振り、目蓋を開けた。
 扇風機の音も、静かな闇の中ではやたらと耳につく電化製品の唸り声、何一つ聞こえなかった。雨音。遠雷。今度は光るのを見逃したか。
 手を、と囁かれ力を緩めると、逆に掴まれ引き寄せられた。首筋。蛇の鱗の伝ったあたり。身震いしながら田代は、先生、と小さく囁いた。