朝寝する師弟
陽はまだ昇らない。しかし枕元はもう明るい。 寒さが緩んだという表現ももう季節外れか。しかし朝が随分明るくあたたかくなった。それでも出てしまった肩や、布団の中で寄り添ったせいか、暑いとわずかにはみ出した手が冷える程度ではあり、それもまた心地良い。田代は静けさに耳を澄ます。寝息らしい寝息も聞こえないが不安なことはない。 どう、ということはない夜だった。同じ布団に寝ただけだ。眠りに入るまで腕枕をされる。喋ることも多くない。まどろみの時間を共有し、静かに同じ眠りに入るだけのことがどれだけ贅沢な時だろう。 もう朝か。目は醒めている。はみ出した腕を伸ばし、枕元の眼鏡を取り上げようとする。触れたところで違う体温の手が覆い被さる。 「もう少し寝ていろ」 はい、と返事をする瞬間が好きだ。全ての思いがその一言に乗る。 指先に抓んでいた眼鏡を手放し、覆い被さる掌に添う。指を開くとわずかに絡む。布団の中に引き寄せる。 「寒いか」 「いいえ」 夜に比べれば明るい。だが陽はまだ昇らない。まだ暗い。もう少しの間。まどろみを共にする。
沓脱石に初夏の熱
沓脱石がまだ熱を持つ、その上に素足を載せ皮膚を越して伝わる熱をじんわり感じる。もうすぐ夏になるのだ。日は随分長くなった。目を瞑れば陽光も夕景も足の裏にある。天地はいつの間にか逆さになり、藤の香りのする空に頭を押しつけ、自分は落ちてゆくのだなと思う。疲労している訳でもないのに、うたた寝のあわいの思考が何故かその奇妙な状況を田代に納得させた。首ががくりと折れて、急に目覚めた。 「何だ、起きたのか」 すぐ隣で声がかかる。山本がしゃがみ込んで田代の顔を覗いている。すぐには返事ができなかった。起きたばかりの喉が攣った。 「…起こしてくだされば」 「微笑っておったぞ」 それ以上付け加えることなく立ち去ってしまったので、田代は自分が立ち上がって追いかけなければならなかった。縁を、畳をあなうらにあたたかいと思った。沓脱石はとうに冷えていたのだ。 「にやけていましたか」 「微笑んでおったのんだ。なんぞいい人でも出てきたか」 「いいえ…」 藤の香りが、と振り返る。台所の明かりが点き、座敷も縁の向こうも急に暗くなる。 「鮮やかで」 「あれは香るな」 「はい」 飯、何にすると問われる。 「何にしましょう」 「俺が尋ねとるんだがなあ」 冷や奴も寒くない、いい季節になったものだ。季節が変わるたびに違うものを食卓に並べながら同じ言葉を違う実感をもって吐く。天気予報に曰くしばらく雨になるそうだが、濃紺の空にかかる月に、明日からこれが見られぬとは俄に信じ難いもので。夜を惜しみ、月光を惜しむ。揃いの杯の、酒をちびちびとやりながら短い夜に緩やかに酔う。話の拍子に笑い出せば、身体の揺れるのと互いに顔を寄せるので膝が触れる。煙草の火は田代がつける。マッチを擦る音の刹那的な燃焼。 「相変わらず初々しいな」 煙を一吐きして山本が言った。田代は煙草に手を伸ばさない。隣から漂う匂いを鼻に吸い込む。ふ、と溜息を吐く。山本の手が伸びて、指の背が頬に触れる。莞爾として、沈黙。
夜煙草
おやすみを言った筈の山本が縁を少し開け煙草を吸っているのを、微かに射す月明かりに知った。真夜中の畳を踏む。四月の空気は随分緩んだが、夜の奥はまだ冷えている。山本が振り返った。雨戸をもう少し開け、隣に座った。煙草の火をもらう。半纏の肩が触れる。夜桜はもう半分散っている。
2014.3〜4月
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