甘え上手


「先生、薬を飲んでください」
「世話女房め」
「何とでも言ってください」
「陣基」
「はい」
「貶してはおらんぞ」
「………」
「まあ、こちらに来なさい」
「僕が来たらどうしますか」
「そう怒るな。飲まないとは言っていない」
 常朝は湯呑みを揺らす。
「白湯だが」
「晩酌ですか」
「女房となら味も違おう」




二回目


 脱いだ服を畳んでいると緊張がいや増す。興奮よりも、田代の心を占めるのは畏れだった。手指の先を震わせるほど細い神経ではないが、しかし裸になった背の、皮膚の下、筋肉が緊張に軋みをあげるのを確かに感じる。それは仕合で敵と相対する緊張とはまた違っていた。道場に立つ時、陣基は負けるとは思っていない。勝てるとまでは思わないが、それでも負けることはないだろうというフラットな高慢が心身を落ち着かせる。故にか事実陣基は他の人間の評判どおり、仕合で負けたことがほとんどない。負けなしと評した北の言はあながち嘘でもないのだ。
 道場に立つ際の緊張は神聖さから生まれる。礼をし、向かい合い、竹の刃に命をのせる。
 だが今、この肉体一つ、丸裸になって向かう相手が自分を道場の床に突き転がした男で、田代は身体の奥から震えるのだった。
 己が望んだことである。この胸に抱くのは畏怖。だがそこに恐怖もまじってはおるまいか…。
「陣基」
 名を呼ばれるだけで痺れる。
 山本は布団の上に胡座をかき、火のついていない煙草を枕の向こうに押しやって屈託のない笑顔を浮かべた。
「キスしてやろうか」
 たった一言で田代の感情は振り切れ、制御できない呻きが口から飛び出す前に両手が顔半分を覆っていた。突然のことで咄嗟に動いた手だが、山本が何を言ったのか、自分が何をしようとしたのか自分でも分からず、ただただ口元を押さえて息を止めていたがために、息の止まった頭はいよいよ苦しい。目元が熱くなる。自分が泣き出しそうなのにはまだ気づいていない。
「おい」
 反応があまりにも大仰で、山本の方が困った顔をした。
「嫌だったか」
 慌てて首を横に振り、息をつくと無様な喘ぎが喉を鳴らす。驚いたのだと本当のことを素直に言うのも恥ずかしく、俯き、また片手で口を覆う。
「嫌がっているようだが…」
 その手を指さされて、また力無く首を振った。嫌なはずがありません、と答える声は蚊の鳴くようなものだった。
「先生」
 膝で布団の上に擦り寄り、田代は両手を突いて俯く。
「僕が先生より先に死んだら、先生のせいです」
「だろうな」
 そう答えられるとは思っていなかった。頬に手が添えられる。促されるがなかなか顔を上げられない。
「陣基」
 耳の奥から頭が痺れる。身体が軋む。痛いほどだ。それが触れられた頬に感じる熱に導かれるように、己の身体を知る。痛みが解け、もう一度自分の身体になる。顔を上げるのは恥ずかしい。目を伏せると、少し引き寄せられる。息を止める。
 息が止まる。そして、ゆっくりと吐く。








2014.3〜4月