志を見届けたらば、此方よりも頼むべし
お慕いしています、と潰れそうな声で呟いた田代が急にすっくと立ち上がり出て行こうとする。思わず倒れ込みながら足首を掴むと、掴まれた田代もつんのめった。掴む力が強かったせいもあろうが、既に自身まともに立っていられる状態でもなかったらしい。泣き出すのを我慢する子供のような顔で歯を食いしばっていた。 「落ち着け」 「冷静に考えようとするなら先生の前にはもういられません」 「じゃあ、ここにいろ」 「いられません」 「正気か」 「狂っています」 ぐらりと田代の身体が傾いて尻餅をつき、身体を半分廊下へ飛び出させた。 「離してください」 「俺を…」 「お慕いしています。嘘ではない。嘘ではないから、もうこのまま行かせてください。破門してください」 「一門を構えたつもりはないぞ」 死んでしまう、と田代は呟き顔を覆う。 山本は白く冷たい裸足に手を這わせた。氷のように冷たい。清潔な男だと思った、その足に手を這わせる冒涜を想像したことは一度ならずあった。 「陣基」 「すみやかに死ぬべきでした。あなたにお会いして、あなたをお慕いして、僕はすみやかに腹を切って煙にでもなるべきだったんだ」 「俺に灰を抱けと言うか、陣基」 荒い息をつきながら、指の隙間から田代が目を覗かせた。 「俺を見くびってもらっては困る」 足首に手を這わせもう一度、さっきよりも強く掴んだ。 「お前自身もだ。敵前逃亡をするような弟子に育てた覚えはないぞ」 いつからこぼれていたものか涙は田代の頬を濡らしていた。彼はそれを袖口で拭い、天上を見上げて大きな息をついた。廊下の冷たい空気を吸い、もう一度こちらを見た時の、その眼光の冷え冷えと鋭利なこと。刃がするりと首筋を掠める。 「先生、」 足首を離しても田代はもう逃げなかった。正座をする。その姿には立ち合い前のあの緊張が滲んでいる。山本も炬燵から出て田代に向き合った。 「身命を委ねます。全て」 ここまで言われてできぬでは男ではない。心臓に刃を突きつける決断は互いが互いにそうなのだ。 「先に風呂を使うか」 尋ねると、 「今でも」 と思い詰めた眸。言いながら自分でも赤くなっているので、落ち着かんかと頭を軽く叩いてみせた。 「先生…」 「案ずるな」 言えば自分でも引き下がれぬが、背水の陣を敷く決死を田代一人にはさせない。 「できる」 頷いてみせると、田代が畳に両手をつき深々と頭を下げた。 布団が滑り落ち、膚に触れる夜気の涼しさが心地良く、それを苦笑するほどだった。なんという熱を纏ったことだ。若い時分ならばこのままうろうろしても平気だったろうが、自分の齢を考えるとそれは過信というものだった。山本は丹前を引き寄せて羽織り、のっそりと畳を踏んだ。 障子が透かす微かな星明かり。曇が多いのだろう。この辺りは街灯もないから星月が出ねば夜は芯から暗い。時計の音がやけに響く。自分が長年住まう家にいるのだと思う。かつては同じ屋根の下に妻がいて娘がいた。全て過ぎ去りし時間だ。孤独こそ常態と思い定めたがこの十余年という日々だった。上着のポケットから煙草を取り出した。微かに湿気った匂いがする。 枕元に胡座をかくと布団の中の男は、声を殺しているもののまだ涙を流していて、引き泣きの余韻に時々肩を震わせていた。ライターを点した瞬間に灰皿がないことに気づいた。 火を吸いつけ、深く呑んだ一吸い目をゆるゆると吐く。小さな溜息が聞こえた。田代が目を開けていた。手が眼鏡を探し、触れはしたが何故かかけるのを諦めた。陣基、と呼ぶと首がゆっくりと動いてこちらを向く。動作の遅さは心の重さでもあるようだった。田代はゆっくりと俯せになり、肘をついた。吸いさしを差し出す。触れようとする手の、距離感が危ういらしく躊躇いがちなのに軽く手の甲で触れて直接唇にくわえさせた。田代は慣れない手つきで煙草を挟み、少し咳き込みながら煙を吐いた。吐ききった息の端が震える。 山本はまた立ち上がり障子を開けた。まだ雨戸を立てていなかった。冷たい冬の空はガラス戸を越して伝わり、縁は座敷より更に冷えていた。灰皿は縁の隅にあった。先生、と呼ぶ声が聞こえた。心細げな声だ。陶器の灰皿を掴み座敷に戻る。すぐには見えなかったが、近づけば己の細い声を恥じるような顔をしていた。山本は灰皿を差し出した。 白い皿の縁に煙草が触れる。とん、と灰が落ち熾きが一際赤く燃える。 何か言わねばと田代が思っているのも手に取るように分かった。それが煙草の一呑みで少し落ち着き、溜息になる。山本はもう一本取り出して火を点けた。 田代は指を焦がすまで煙草を吸いきり、短くなったそれを灰皿の底で潰した。 「先生」 手が半分顔を隠す。 「寝ろ」 ぽんと頭の上に手を置くと、また田代の揺れる気配がした。涙は目尻に滲んだが、眸を潤したに留まりこぼれはしなかった。 「先生は…」 「おいおい、今夜も冷える。老骨にはこたえるぞ」 冗談めかして言うと、はい、と小さく頷いた。 夜着に袖を通す。古いので悪いがと山本は言ったが田代はむしろ嬉しそうに微笑した。それは田代の表情の中でも珍しい、素直なもののように思えた。 布団一つは狭い。それでも一所におさまる。妙に明るいので、雨戸を立てていないのだともう一度思い出した。しかしもう布団を抜け出す気はしない。枕元から漂う煙草の匂いや、肩のそばで繰り返される息が穏やかさを得、眠りに落ちようとしているのを感じれば自分にも眠気が襲ってくる。 「先生、僕は」 ぼんやりと淡い闇の底で田代がそっと囁いた。 「あなたが、できると仰った時本当に嬉しかったんです」 それを思い出せば山本も些か気恥ずかしかったから喉の奥で笑った。 田代は、先生、と繰り返した。 「おそばにいてもよろしいですか」 「好きなだけいろ」 手を伸ばして頭を撫でてやると、生温かい息が肩口に触れた。 翌朝、布団の端に近い側がやたらと寒いと思ったら、障子を開けた向こうの景色が白い。薄く積んだ雪で外は真っ白だった。 「陣基」 呼ぶと、赤い丹前を羽織った田代が台所から座敷を横切って寄ってくる。 「寒いはずです」 呟く横顔の、眼鏡をかけているのはいつものことだが、目元が僅かに朱い。 「飲むか」 「…朝からですか」 「まずいか」 朝食をお作りしますから、と田代は踵を返す。 「今日は下の町に越してくる算段の…ご相談にのっていただかなければならないので」 「なんだ」 山本は笑う。 「ここに住むのかと思ったぞ」 みるみる赤くなる田代を追い越して台所に入る。 「鮭を焼こう」 「鮭と……酒の洒落ですか」 「…それは思わなんだが」 「………」 田代は自分から笑い出し、山本の隣に並んだ。
2014.2月
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