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二月・遣らずの雪
掌から滑った器が流しの底でごつんと音を立てた。田代は何食わぬ顔でそれを取り上げ、再び流水に晒した。 「井原西鶴曰く、言い交わした相手を持たぬ若衆は許嫁のない娘と同じ、とな。蓋し名言ではある。そうした若い者にはからかい半分に手を出してみたいものなのだ」 「それは…」 田代は皿を上げる動作の間言葉を途切れさせ、言った。 「出典は」 「『男色大鑑』だな。念友のなかき前髪は縁夫もたぬ女のごとく思われて…」 蛇口を締め、掌の水を払う。血の気を失った手の指先ばかり赤い。急に不思議に思えてじっと見た。 「難しい道だったのでしょうか」 「楽な道というものがあるまい」 声が急に近づいたので驚くと、山本は台所の隅に据えたダンボールから蜜柑を取り出し、籠に盛っていた。田代は思い出したようにタオルで手を拭いた。 「食うか」 「いただきます」 座敷はしんと静かだ。テレビの画面は今日も暗いまま。田代の書きかけたノートが炬燵の脇に置かれている。夕食の間、どかしたものだ。障子の向こう、雪はちらちらと音もなく降る。 「星野了哲は衆道の元祖だという。その了哲が衆道をすいてすかぬ者と言った。命を捨てるが衆道の極意。そうでなければ恥だ。しかしそうなると主に奉る命がない。故に」 「すいてすかぬもの…」 彼らは、と言いかけて田代はノートを見た。しかし取り上げなかった。 「生涯、一人と…」 「貞女は両夫にまみえずの心得どおりだな。まあ、そういかぬ者も多かったろうが」 「そうですか」 「でなければこのような心得をわざわざ言って聞かせることもない」 むいた蜜柑を一房口に放り込み、山本は雪を見た。 「交情の相手は一生に一人。相手が年上ならば五年ほど付き合い相手の気持ちを見届けた上でこちらから頼むのがよい。相手が年下であっても心底を見届けることには変わらん。命懸けで五年も六年も待てば想いのかなわぬことはない」 「互いに命懸けであれば、ですね」 田代の言葉がふと引っかかったか、山本が振り返った。田代はノートを取り上げ、その上に俯きながら面差しを隠した。 「佐賀藩にもそのような人がいたのでしょうか。何か記録が」 「残っていたな」 山本は座敷の奥に目を遣り古書の背を目で撫でたが、しかし立ち上がることはせず蜜柑をもう一房口に入れ、思い出すように目を瞑った。 「中島某という者の話だ。ある夜、百武という男の家を突然訪ねた。たった今行きがかりで三人を切り捨てたが即座の切腹は残念であるからそれまでの命を頼む、と。相手はそれに頷き、二人手に手を取って山に隠れた」 「手に手を取って、ですか」 「手を引いたり負うたりして、だったか。夜明けになり山三は…、ああ中島山三だな、山三は人を切り捨てたのも全て嘘であり相手の心を見届けたかったからだと告白した」 「相手は許したのですか」 「命懸けで逃げたほどだ」 「そうですね…」 田代はペンを動かしたが自分でも何を書いているのかはよく分からなかった。 「食うか」 山本の声が聞こえ、蜜柑のむいたのが丸々一つ差し出される。 「ありがとうございます…」 手を伸ばし、顔を上げたところで目が合った。 「先生は」 触れるのを恐れるように指先で取った。 「この、命懸け、理解できますか」 「そも衆道という。男色もまた人の道にかなうものだ」 「命懸けの…これは、恋でしょうか」 「道なれば命そのものよ」 丸い蜜柑を割り、一房。口に入れたものがじんわりと染みる。 「指先、赤いな」 湯を使っていいと言ったろう、と山本は言う。田代は小さな声で、ぬるま湯では逆にひび割れて、と返し指先を頬に当てた。熱い。 「水の冷たさなど、慣れます」 「慣れるか。しかし今夜は冷えるぞ」 雪はいっこうに止む気配がない。帰ることはいよいよかなわぬと見える。 「電気アンカが一つばかりだったが」 「いいえ、先生。お構いなく」 「いや、どれどれ」 掛け声を上げ山本は立ち上がった。 「湯たんぽがあったぞ。あれはぬくもる」 「先生」 「座っとれ」 肩をぽんと叩かれた。 「手を入れろ」 しかし田代は炬燵に入れることなく両手を額に押し当て、山本の気配が背後から去った途端風船のしぼむかのように深く息を吐いた。額までもが熱かった。このような夜に泊まって行けと言う。なるほど、確かに命懸けだ。 「死んでしまう…」 情けない声で呟いた。
2014.2月
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