蛇口から漏れて落ちる
「先生は、ずるい」 緩い蛇口からぽと、ぽと、と水が滴り落ちる。夕景の自分の部屋の記憶は田代の中に薄い。仕事をしていた頃は夕陽の照る中帰ることなどなかった。山本と出会ってからは落陽より早く辞することはなかった。 何故、あの場所にいないのか。苔むした道を辿り笹のトンネルを抜けた先に自分の居場所はあるのに。 コップの水を取り上げ、思わず頭からかぶるところだった。理性が留めた。冷たく濡れたコップを額にあて、熱の程を計れば己自身に嗤いさえこぼれるほどだった。のぼせているのは自分の方だ。 それでも。 「先生は、ずるい」 呟くとコップが傾き、縁からこぼれだした水が手を伝い落ちた。眼鏡がコップにぶつかる。カツ、と小さな音は現実という足場を田代に思い出させた。ほんの少しばかりだが、ここは自分のアパートで、自分はもう三十路も半ばを過ぎ不惑への道を歩んでいるのだという、この世で生きるには捨ててはならない現実だった。 しかしそれでも田代の身体は傾き、ようやく流し台にもたれかかった。傾いたコップからは水が溢れこぼれ落ちシャツの袖を濡らしてステンレスのシンクで音を立てた。それに隠れるようにもう一度、先生、と呼べば浅ましいほどの執心がありありと形になって、情けなさに田代の顔は歪むのだった。己に対する恥ではなかった。それもあの人の弟子であるのに、という思いから生まれる恥なのだ。
晩夏のぬるい欲情
欲情を引き摺ったままぬるい風呂に身体を浸すと、湯よりも膚の温度が僅かに高い。たらりと流れ落ちる汗が湯船に溶ける感触は冷たい。汗のなぞった部分が溶けて水になる。融解する肉体は止め得ないのに欲情ばかりが残る。 熱の浅ましさを田代はもう自覚することができず目を細め、ようやく薄暗くなった狭い浴室の窓をぼんやりと見上げる。宵の星が滲む。己の息さえ自分のものとは聞こえない。耳障りだ。手を持ち上げると滴り落ちる水が頬を打つ。雨よ降れ。 手の触れる分だけは自分の肉体もあるから、夢ではあるまいし、肉体は溶けなぞしない。浅ましさも欲情もこの肉体、己自身のことである。目が醒めた気分だが、視界は相変わらず茫洋としてどれ一つまともな輪郭を持っていなかった。まず、眼鏡がないので。 昏黒である。不定形である。浴槽を満たすものは湯でも水でもない。全て曖昧な境界で、ならばいずれ排水孔から捨て去るぬるま湯の中にこそ欲情は吐き捨てるかと、とうとう手を伸ばす。お為ごかしかと頭の裏で嘲笑う己がいない訳ではない。欲情に翻弄され、とにかく楽になりたいと、弱音を吐いている自分自身を田代は分かっていない訳ではなかった。故に浅ましい。故に醜い。故に、殺してやりたいと心底願う。死ねば、この肉体がなければ、ようやく相応しい。 風呂の栓を抜く頃には本当に灰になってしまいたかった。げっぷに似た下品な音を立てて最後の水が吸い込まれると、シャワーを握って空の浴槽を流す。冷たい水と、微かにカルキの匂い。浴槽の底にざん、と雨の音。 殺してくだされば。 先生に殺されたい。 その手より刃で。撫ぜるよりこの首を落としてくだされば。死ぬ。死ぬだろう。だが山本という人はそれを許さぬはずだ。安息の妄想を抱いて田代は濡れたタイルの上にしゃがみ込む。小窓から流れ込む空気もまたぬるく、重い。 滴り、雨になるのは週末のことだろうとテレビが告げて、田代は裸のまま畳の上に尻をつき優しげな声を聞いている。女。色づいた唇。知らず指で自分の口元を撫でる。そうされるよりは殺されたい。思う気持ちの全てが痛みになればどれだけ善いか。お慕いしています、と喉の奥で囁く。先生を尊敬しています。それは間違いない。天に誓い地に宣い自分は山本を尊敬している。だからこそ己が許しがたい。清らかであるべき思いを汚すのもまた田代自身であればこそ、煩悶は続くのだ。 テレビが消えると支えをなくした無音が流れ込む。押されて倒れる己の肉体の、張り合いのないこと。生乾きの髪が畳に擦れてざりりと音を立てる。焦点の定まらぬ目が茫洋とした黄昏の闇に縋るものはないかと探す。眼鏡はどこに置いたろうか。 横になったまま田代は短く呻いた。畳の匂いも、あの家とは違う。
2014.3〜4月
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