聖三角形の終焉
薄く目を開く。背中が焼けるようだ。痛い。 爪の痕は後ろから抱きつかれ掻かれたもので、深かった。竹子は泣いているだけで何も言わなかった。嗚咽さえ聞こえず、夜の中に涙と熱の匂いがしたから、ああまだ泣いているのだなと思った。 理由を分からないと言えば不実だ。だが言葉にしても不実である。謝るつもりはない。想いを隠しきれなかったのは我が身の至らなさ故。想いがあるのは真実。同時に竹子のことも大事に思っている。女の中でここまで大事にしたいと思った存在はない。結婚にも踏み切った。自分の妻だ。だが、威張ることではない、か。 夫婦は対等なものであると田代は考えている。嫁ぐ。迎え入れる。父の家を離れ姓を変えた竹子にもちろん覚悟があったように、他者をこの六畳二間のアパートに受け容れる田代もまた今までにない責任を感じていた。幸せにしますという誓いの言葉は嘘ではない。あの時、竹子の化粧が崩れるほど泣いた顔が瞼の裏に浮かぶ。 狭い浴室のドアを閉め、薄く曇った鏡に背中を映した。眼鏡を外しても分かる。赤い掻き傷の、二筋、三筋。左には一筋。人差し指だ。湯をかけるとしみたが、目を瞑って耐えた。シャワーの温度を少し上げる。痛みが明瞭な形を得る。竹子の手もまた細い。彼女の父に似て。 それから二人当たり前のように暮らしたが、断絶は確かにあの夜にあったと田代は今でも思い出す。つまりあそこで振り向き竹子を抱き締めなかった自分の罪だ。あの時逃げてゆく彼女の命を留めなかった。竹子の魂は常に地上にあるものでなかった。父の手が、庭の柿が、親しんだ和歌が、誦経の声が地に留めるものだった。 六畳二間のアパートである。急に広い。ここに独りで住まうが当たり前だった田代に空隙ができる。裂かれた背中から胸まで風が通る。 バスに乗り坂を登って義父の家に行く。庭は、繁るとまではいかぬがそれでも雑草の緑が目立つ。黙って草を引いていると、来たのか、と縁側から声をかけられた。振り向く際、汗で背にシャツがはりついているのを感じた。 「晴れ間のうちに」 ぽい、と抜いた雑草を捨てる。山本は風呂を焚いてくれて、日の暮れる前には切り上げた。湯をいただき、浴衣に袖を通す。ふと手を止める。これまで浴衣を用意してくれたのは竹子だったのだと思う。 「先生」 「そんな声を出すな」 酒を用意していた山本が苦笑した。 「心細げな…」 |