昔の男


「先生が離婚をすすめなければあなたは死んでいたかもしれないんだぞ」
「…いけませんか」
 竹子は三面鏡を閉じ、のろりと首を動かして振り向いた。
「いけませんか、死んでは」
「先生が…いや、あなただって」
「やめましょう」
 濡れ髪が表情を隠す。
「もう関わりのない男の話なんか。私の夫はあなたです」
 どうでもいいことじゃありませんか、と竹子が呟いた。
「夫だから思うのだ。あなたの心がどうでもいいことなどない」
「じゃあ、知りたいんですか」
 立ち上がると枕元の明かりに薄い寝間着に影が映る。痩せた身体の線である。それが、ふ、と目の前に座った。
「本当に、私があの男を愛していたかどうかなどと、お知りになりたいの」
 ひどく懐かしい泥に鼻の頭から転けた心地だった。ぬめりと掌に汗が浮く。竹子の言葉はそのまま田代の胸の奥底で蓋をしていた記憶と同調した。
「私…」
 膝が、にじり寄る。
「あの男を…」
 肩をぐいと掴む。咄嗟のことであった。竹子が痛みに顔を歪めたが声は上げなかった。そうだ。自分もそうだ。声を上げることはなかった。
 もし山本が離婚に動き出さなければ竹子はあのまま前の夫に殺されただろう。自分は名だけしか知らぬその男が死ねと言ったら死んだとも思えた。
 自分が竹子に死ねと言っても…竹子は死ぬまい。
 抱き寄せようとすると一瞬竹子は抗った。田代はそのまま布団の上に彼女の身体を押し倒し、上から見下ろした。
「……変なことを言わないでくれ」
「ごめんなさい」
 竹子は素直に謝った。田代は背を向けた。背後の気配はしばらく横たわっていたが、やがてのろのろと起きた。
「寝ましょう」
 布団を捲る音。
「明日もお仕事です」
 するりと滑り込む衣擦れの。
 田代は振り向かず手を伸ばした。彼女の足首を掴んでいた。振り向き、手を上に滑らせると膝の上まで露わになる。
 そこで初めて竹子が薄い微笑を浮かべた。田代は眉根を寄せる。
 明かりを落とす。隣同士の布団に潜り込みながら、互いがいつ溜息を漏らすかと息を殺して耳を澄ます。
「ごめんなさい」
 闇の中で弱々しい声で、竹子は再び呟いた。