伊万里にて


 絵小皿の模様が水の中で滲んで、あら、と思った瞬間、南天の実の赤も葉の鮮やかな緑も全て夕暮れのシンクの鈍色に溶けた。輪郭さえ分からなくなり、指先から滑り落ちた小皿はステンレスの上で音を立てた。
 どうどうと冷たい水が蛇口から流れ落ちる。竹子はまばたきをし、濡れた指で目元を擦った。昨日から絶えず身を襲う漠然とした不安が、また膚の内に満ちる。灰色の水で身体の中が満たされている…。蛇口から落ちる水の透明なこと、澄んでいること、指先まできんと冷やす冷たさ。溜息をついて掌を浸した。冷たい。清らかだ。また、哀しくなった。
 背中が茶の間の物音を拾う。お父さん、と竹子は胸の中で呟いた。父に誘われて伊万里を訪れるのは三度目であった。教え子の家なのだ、という。その人は窯元を手伝いに行っていて、まだ帰ってこない。そろそろ店じまいの時刻である。背後の山から降る蝉の声も途切れ、軒下の鉢植えかどこからか聞こえる虫の音が坂を駆け下る水路の水音と共に流れてゆく。
 教え子とは妙齢の女性である。ずっと独り身だと言う。初めて紹介された時、父はこの人と再婚するのではと竹子は恐れた。それから再び恐れ、今日また更に恐れている。何故独り身の教え子の元を父が毎年訪れるのか。焼き物に文字を入れるためだと最初から言われてはいたし、その作品も見た(大皿や、タイルだった)。しかし最初から竹子は信じていない。父が心の奥底で何を考えているか分からない。いいや常日頃、平生であっても汲み取れていないのでは、と思う。母のようにお茶を淹れることも、彼の愛弟子のように言いたいことを察することも。私は父の娘と言うだけ。つまらない女だ。それが竹子の自覚であった。つまらない女だから、こんな邪推をするんだわ。
 蛇口を締め、エプロンで手を拭う。白い布巾で拭うと、さっき鈍色に溶けた絵小皿も確かに南天の模様だった。やっぱり私はおかしい、と竹子は拭った皿を並べる。
「おい」
 父の声が飛んだ。
「焦げとらんか」
 慌ててコンロの火を止める。甘く煮た豆が些か香ばしく、鍋の底に触れていたものが黒く色づいてしまった。せっかくこんな綺麗なお皿に盛るのに、と悲しくなるがこのような失敗はいつものことだ。
 窓から四角く切り取られた伊万里の風景の、半分は岩肌も剥き出しの恐ろしい山である。岩は影になり、絵の中に墨を流したようである。もう半分が暮れかけた朱鷺色の空だった。山の向こうに身を沈めた陽の名残。一日の終わりの空は一等明るい。
 竹子は流しを背に振り向いた。
「お父さん」
 父はそう呼ばれるのを待っていたかのように畳の上から振り向いた。父が目の前にいる安堵が瞳から、これから問うことへの不安が胸から圧した。竹子はエプロンの裾をそっと握った。
「私にお話があるんじゃないかしら」
 朱鷺色の空を背にした自分は逆光の中で、岩山と同じ影だろうか。墨を流し込んだように黒く得体の知れないものに見えるのではなかろうか。父の目を見るのが怖くて目を伏せた。
 のし、と台所の板間を踏む足音。父は竹子の隣に並ぶと流しの横に伏せられたコップを手に、蛇口を捻った。水音はコップの中に収まる。ぐい、ぐい、と音を立てて父がそれを飲み干した。
「お前、不安じゃないか」
 そうです、と胸の中で咄嗟に叫ぶ。しかし声には出さない。
「そう…見えるの」
 なあ、お前、と父は逃げようとした自分の視線を捉え、じっと見つめて言った。
「結婚を、せんか」
 竹子は思わず微笑み、首を傾げた。
 お父さんと。
 まさか。
 急に何を言われたのか、聞こえた言葉がばらばらに分解され、分からなくなった。
「私、お父さんの傍にいます」
 ようやく口に出した、それが本音を違えず言葉になっていることい竹子は自分で驚く。私、ちゃんと言えたわ。
「竹子」
 そう呼ばれると涙が滲む。
「俺のせいで苦労もかけた、つらい目にも遭わせたが、お前はもう幸せになってもいい」
「私、このままでいいです」
 それとも自分が再婚したら、父もようやく自分というお荷物から解放されるということだろうか。伊万里。独り身の教え子。
「田代が」
 父の口からやや照れを含んでその名前が出た時、竹子の心はスッと澄んだ。
 ああ、そういうことだったのか。
「お前を嫁に欲しいと言っている」
「ええ」
 返事は慌てず、だが躊躇いもなく。
 田代の名が出た瞬間から、竹子は全てを受け容れていた。父が田代のことを言う。ならば仕方ない。お父さんが幸せになれと言うのなら、私はなるわ。それが一番いいことなんだもの。
「ありがとう、お父さん」
「いいや、まだ返事はしとらんぞ。お前の気持ちも聞かずに、そんな、俺とて…」
 竹子は顔を上げ、自ら父と視線を合わせた。
「私、田代さんと結婚する」
「あれには改めてプロポーズをさせる」
「そんな、プロポーズだなんて恥ずかしい」
「大事だろうが」
 声に笑いの滲む父は安心をして見えた。
「ごめんなさい」
 口から思わずこぼれた言葉は涙も呼んだ。
「ごめんなさい、お父さん」
 エプロンの裾で顔を覆い涙を拭く。しかし嗚咽が喉をつく。温かい掌が肩に乗せられた。
 石畳の坂を小さな足音が上る。教え子の帰宅である。玄関から、あら、こうばしい香り、と笑う声が聞こえた。