新婚の二人


 手を持ち上げ、竹子は枕元のランプに透かした。赤い血が透けている。隣の男も眠ってはいなかった。目蓋を開いている。ただじっと天井を見つめている。
 これが三度目の記憶となるのだ、と竹子は思った。幼い頃、母に手を引かれて登った坂。父の背中を見つめながら登った坂の、古い旅館。あの頃は
武雄も遠くに感じられた。今日も同じように電車で来たのに、あっという間だった。来て、風呂に入って、美味い料理を自分で作ることもなく上げ膳据え膳で。再び大浴場から戻ったら既に布団が敷いてある。
 何の為にここに来たのかしら、と問うも愚問だった。ささやかながら新婚旅行のかわり。
改めて家族になった者同士、温泉と、料理と、酒を酌み交わすため。充分だ。父は料理にも酒にも満足そうだった。田代は口数が多く、ノートをとってもいないのに父との話が尽きなかった。
 素敵だ、私たちは夫婦になり、親子になり、家族になったのだ。ささやかな家族の、ささやかな幸せをこそ竹子は尊ぶ。それこそが欲しかった。大したものなどいらなかったのだ。父がいてくれればいい。そして私を安心させてくれるのが田代であれば、それは何と文句のない話。
 竹子はすっと身体を起こした。髪の毛が重たく流れる。目蓋を開けて天井を見つめていた男がこちらを見た気配があった。
どうしたの、と小さな声が問いかけた。
「何故、でしょうか」
 竹子は胸の上を押さえ、胸の奥から息を吐き出した。
「何故、別々の布団で寝ているんでしょう」
 振り返り、田代を見つめた。眼鏡をかけていない顔は見慣れなかった。その顔が驚いているのは更に見慣れなかった。この人も驚くのだ。

 竹子は田代の布団を剥ぐと腰の上に馬乗りになり、真上から田代を見下ろした。胸の中では、浅ましい女と思うでしょう、淫らがましいでしょう、私を軽蔑するでしょう、と声が渦巻いていた。だがどれも呑んで耐えた。
「父が隣にいるから、できませんの」
 最早問いではなく事実を口にするのと同じで
竹子は自分の口が裂けて酷い顔になっているような錯覚を覚えた。そして、自分など消えてしまえばいいのに、とずっと抱き続けてきた感情を始めて胸の中で言葉にした。すると涙が目に滲んだ。何故幼い姉は死んだのか。何故仲睦まじかった母は死んでしまったのか。自分ではなく姉が生きていれば
きっと姉は田代と本当の恋をしたに違いない。自分ではなく母が生きていればこんな奇妙な旅行などあり得なかったはずなのだ。
 何もかも狂わせているのは、私…。
 田代の腕が乱暴に自分を抱き寄せた。力加減を知らないかのようで、抱き寄せた田代も自分の上に落ちてきた女の身体の重みに存外の
息を吐き低く唸った。竹子は逃れようと抗ったが、決してそれは嫌悪ではなかった。
「ごめんなさい」
 その言葉が口をついた。
「違う」
 低く、苦しげな声で田代が言った。
「違うんだ。分かってもらえるか」
 自分を抱きしめる田代の腕の力の強さは闇雲で、弛もうとしない。
 しばらく互いの耳元に
荒い息づかいだけが響く。
 竹子はゆっくりと枕元のランプに手を伸ばした。白い手を透かして血の流れるのが見える。赤い血が。
 明かりを落とし、竹子は唾を飲み込み、息を吐いた。あなた、と囁くと田代が浴衣の帯に手をかけた。
 静かに、何もかもが静かに行われた。竹子は闇の中に耳を
すました。寝息を聞こうとした。
「起きていますか」
 背中の夫に尋ねた。
「ああ」
 田代が答えた。