享保四年十月十日


 す、と衣擦れの音さえ斬って落ちるように、帯の解けたその刹那、眼に映る膚の白さである。清潔な男だと常朝は動かぬ面の奥で思った。彼が初めてこの庵を訪れた三月のあの日、小笹の影より木戸を押し開けて庭に入った時、言葉を交わすより先に眼交いがあり、陣基は自分を見つけ、また自分は花を求めて櫻の枝に伸ばされた手のような一途な、しかし三月の風にまじる冷涼のような清潔と出会ったのだ。夜陰の下、立て板に水のごととうとうと湧き出でては止まらぬ自分の言葉をひたむきに文字に落とした、あの筆持つ手の姿勢良さ。墨が薄い紙の上を滑るあの微かな音はなんと清かで心地良かったことか。そして筆を置いた瞬間の静けさである。しん、と自分の息さえ忘るるような静寂の中に、一人の若い男が目の前にいることがじんと感じられ、ああ清潔な男だと思ったのだった。
 帯を解きはだけた襟の隙間から垣間見える膚の下に息づくは自分の教えだと、脈打つは受け継いだ心だと陣基は言った。手刀が腹を真横に割き、あの日の青年は、今はもう自分が剃髪したと同じほどの齢になるか、そっと前に傾き首を垂れた。
「儂に介錯せよと言うか、陣基」
「ご一緒しとうございます」
 常朝は陣基の頸に手刀をあて、ふ、と微笑した。
「主君のお役に立てよ、陣基。親に孝行しろ」
「武士道において遅れを取らず…」
「慈悲の心を起こし人の為になれ」
 なに、おまえなら、という言葉はもうはっきりとした声ではなかったが陣基は確かに聞き取ったらしく、くっと唇を噛みしめて眸を伏せた。陣基と呼ぶと低く抑えたいらえ。
「陣基」
「はい」
 はかくれに散り止まれる花のみぞ、と呟けばまた、先生、と低く呼ぶ声。
「庭はどうだ」
 首を傾けるが、景色は霞み、秋晴れらしい陽の下に膚の白さばかり広がる。
「菊も満開です」
 陣基も自分の肩越しに庭を振り返る。
「柿が赤く実って」
「櫻はどうだ」
「色が深く」
 己が影に白い花を見た葉は。
「まだ枯れてはおりません。葉が落ちるのはまだ先でしょう」
「陣基」
 心の臓の、鼓動を打つ上に掌を載せると陣基が庭を振り返ったまままた、つ、と唇を噛んだ。
「浮世から何里あろうか。なあ、陣基よ」
「またたずねて参ります」
 帯を締め直し、襟を正した手がふと未練を持って止まり首筋に触れた。
「先生」
「椿の花のごと」
 常朝は自信を持って口元を吊り上げた。
「綺麗に落としてみせるぞ」
「ありがとうございます」
 また少し閑談をした。夜陰は密かに忍び入り、残照を見送ったかと思えばもう月が出、虫の声が聞こえていた。
「筆はあるか」
「ここに」
 虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞きにしものを。
 常朝が詠み、陣基が書いた。あの口述と筆録に費やした七年、そして編纂を終えて今日までの日々も、彼らはずっとそうだったのだ。
「先生、お休みになられませんと」
「まだそこにいるか」
「はい」
 燭の明かりが消え、月影ばかりが差す。夜気は冷たい。虫の音を遮るように、とん、と障子を閉めた。
「まだそこにいるか、陣基」
「はい先生。いつまでも」
 常朝は深く息を吸い、胸に香る爽やかさにふと頬を緩める。瞼を閉じると常夜の闇だった。深く深く息を吐く。風に山櫻の葉が揺れる。ざわざわと囁く葉は小さな庵に眠る自分の身体も覆い尽くす。深い緑の影、夢の中で常朝は今一度瞼を閉じた。




2014.2.21