宵っ張りの又左衛門


 額をこつりとやられる。目覚めの瞬間にありとあらゆる記憶が吸い上げられ脳髄に渦巻く。自分がいまどこにいるのか。瞼を開く前からずんと頭が重い。斜め前に朝陽が差していた。割れるようにとまではいかぬが、と掌で目を覆う。鳴り響くようには頭が痛い。
「起きたか」
 常朝がしゃがみこみ、覗き込む。
「はあ」
 気の抜けた返事になってしまった。目元に涙が滲む。
「はい」
「夜に寝なさい」
 文机の、清書されたのと反古を見比べ、無理をするな、と続けられた。
「夜の時間は、惜しいようで…」
 陣基は身体を起こし、肩に掛けられた綿入を指で引っ張る。
「陽を浴びぬことの方が勿体ないとは思わんか?」
「おっしゃるとおりなのですが」
 夜は。
 夜の陰の中では何もかも思い出されて。どこまでも時を遡れるようで。目の前の手に触れ得る場所にいつかのあの時があるように感ぜられて。
「つい、根を詰めてしまいます」
「寝るのも惜しいくらいか」
「惜しいですね」
「私は寝るのが好きだな」
 手にした紙をもとあった場所に丁寧に戻し、常朝は立ち上がる。
「顔を洗ってきなさい」
 井戸端で顔を洗う。つめたく冷えた手を額に当てると頭痛が少し和らぐ。
 夜に眠る。目覚めて感じるように記憶を自在に巡ることはできるだろうか。夢を、見るだろうか。
 朝餉の前に頭を下げ、今夜からは寝ようと思います、と言う。
「そのとおりだ」
 ぱりり、と漬物を噛む音。
「もう少し先を見ろ。そう焦ることでもあるまいて」
 だが、と言いかけて口を噤み、いただきます、と茶碗を手にした。
 一瞬一瞬が惜しい。離れている時でさえ、共にいる時は尚更、その時間が惜しい。
「お側にいたいのです」
 素直にそう言うと、今夜は布団に寝なさい、と常朝は言い、ふ、と顔を上げた。
「まだ朝だ」
「ええ、朝です」
「もう夜の話か」
「生き急ぎすぎでしょうか」
「急いては成るものも成るまいな」
 共に歩くか、と言う。町まで下るのは難儀だが付近を散策するに苦はない。
「花も見頃でございますね」
 山から下る春の、麓に咲き乱れるのを見下ろして陣基が言う。あれから何年を数えるだろうか。花は咲く。毎年同じように咲く。そして人は歳を取る。
 ゆっくりと歩く。急ぐことなどないのである。桜が散り、雨の季節がやってきて、蝉の声染み渡り、落葉を観じ月を観じ、雪の下でじっとしておればまたそれも解けて花が咲き、同じように見頃ですねと話しかければそれで一年だ。時は経つ。ゆっくりと過ぎてくれよ。そしてこの身に重なってくれよ。
 風に乗る花弁が肩を透かして吹き過ぎる。常朝がそれを目で追い、半歩後ろの陣基と目が合う。
「陣基」
「はい」
 半歩を詰める。並んで歩く。




2014.3〜4月