又左衛門が嫁をとる話


 嫁をとる。
 考えたことがないではなかった。近頃では全く考えていなかったと言える。しかし聞書の編纂も終え、修行の期間も一段落したと思われるのは当然のことであろうし、また陣基自身この先の己について考える時期にきたと言える。
 教えはこの身にしかと受けた。では次に何を為すべきか。
 金立山を望むこの権現原に暮らして七年が過ぎた。去りがたい…とは、暮れる西の空を見上げひたひたと胸に迫る思いではあった。しかし、行けよ、進めよ、と声がする。この胸からである。心の臓から。血潮のざわめきが留まることはならん、と。
 翌朝、いつもの道を通った。
「ご相談を」
 言い出した時には見透かされており、さて、と挑むように見られる。
 教えが我が身に息づくものであれば、答は自ずと見えている。しかし。
「他者の意見を聞くことの大事を教えてくださったのも先生ですから」
 と言えば、ふむ、と厳しい表情がほんの僅か破れ、陣基は話し出した。
 話し終えて、しばらくしんとしていた。祝いの言葉でなし、驚きでなし、常朝の眉は動かず、目はひたと陣基を見据えたままである。
「して、どう考えておる」
「この話、受けようかと」
 表に出、一緒に道を歩いた。
 木陰の岩に腰掛ける。
「親に孝行なさい」
 常朝がひとことだけ言った。静かで鳥の声さえ陣基の耳からは掻き消えた。
「はい」
 陣基は頷く。
 帰りに負ぶうと申し出ると、何の戯れかと常朝は眉を吊り上げる。
「先生を負ぶってみようかと思いました」
「突拍子もない」
 まさか攫うつもりではあるまいな、と問われ、風のように駆けられればそうしましょうと答えた。
 思ったより重く、そして望んだよりずっと軽い。痩せられた、と思う。
 少し歩いた。駆けられるような心地もしたが、よした。
「頑健でいらっしゃるから」
 背から下ろして息を吐く。
「重い」
「身体は大事ぞ。たゆむな」
 背中を叩かれ、はい、と頷いた。
 息をついていると皺の寄った手が差し伸べられた。
「互いに負ぶうは無理だが、ま、手くらいは引いてやろう」
 ふと涙が出そうになるのを堪え、ありがとうございます、と差し出された手を取る。庵までの道のりは短い。ゆっくりと歩いた。
 父に話を受ける旨、報告に行かねばならぬから、と言いつつ昼過ぎまでいた。山路を下りながら何度も振り返る。一度振り返り、もう振り返るまいと思ったがまた首は後ろを向く。ふと気がついたものに身体ごと向き直り、手を翳して山裾から見上げた。
 細い煙が一筋、す、と線を引くように立ち昇る。 白く細い煙が緑の中から立ち昇り、青空に溶けこむ。
 もう振り返ってはならぬのだった。青空に消えゆく煙一筋。儚いそれが何よりの証であると、我が心が知っている。それだけで自分と常朝の間には充分なのである。
 私はこの身に先生の教えを受けた。だから…。
 このまま行かねばならぬのだった。

          *

 庵前に佇み、常朝は火にくべた数枚の紙が灰と消えるのを見つめた。数年前、せがまれて読んだ十首。十五首の所望であったから、五首欠けていた。今でも時折あの頃のことを思い出し、試筆するが、それも白い灰となり崩れ、文字の形もなくなった。
 細い煙が天に立ち昇る。陣基は見ているだろうと思う。
 杉原紙の手紙を袂から出して、思いとどまった。広げれば紙面に春が蘇り、白雲の漂う高い空が、花の咲く明るい午後が幻のように包み込む。マボロシだ…、と常朝は小さな炎を見つめる。しかし春の幻影が消えたとて、手の中の書は消えず確かにそこにある。常朝は再びそれを折りたたみ、懐に仕舞った。炎は消えるにまかせた。次第次第に小さくなり、たなびく煙が途切れた頃、常朝はようやく動き出し縁に横になった。




2014.3〜4月