北夫婦の生活
夕が来る前の、昼の盛りも過ぎたが、かと言って衰えた陽光ではない、ぽっかり妙に明るい時間というのが気がつくと目の前に迫っているのが、子供の頃から嫌いと言えば嫌いであった。 正午の、カッと熱い日射しは好きだ。夕焼けが空も山も赤く灼き尽くすのもいい。だがぼんやりと明るいのだけは。空の色も精彩を欠き、空気は熱いというより生ぬるいのだけは。いっそ日よ隠れろ雨でも降れと太陽に向かって怒鳴りたくなるほど我慢がならなかった。虚ろが恐ろしかったのかもしれない。幼心には何もない時間の恐怖を受け流すことができず怒りに転化していたのだろうか。 北はハンドルの上に足をのせ、座席に深くもたれかかった。煙草の煙が開けた窓からのろのろと外へ流れ出す。ラジオは雑音まじりで、流れる歌謡曲の盛り上がり、女の高い声が波を引き連れるようにぐわんと雑音が増す。北は少し音量を下げた。 仕事をすると決めたのは、生きていくためには仕方のないことである。当たり前に生きる人間が当たり前にしていることだった。その当たり前に自分が組み込まれたのも当たり前だと思った。自分はそもそも当たり前の人間なのだ。あの町に住む人間がおかしい。鍵町を離れて一ト月、二月。何年も暮らした出来事がもう夢のようだった。四六野も鉄橋を渡って町を出たと聞いた。筆谷からの消息はそれだけだった。電話の声を聞いたのは妻で、さくらいが嘘を吐くとも思えないが、真偽の程を確かめる術はない。 帰ってきたのは生まれ故郷の町であるはずなのに、ひどく見慣れぬ場所に思えた。その日の新聞が届き、買い物に行こうと思えばすぐ近くに店があり、道路は車が喧しく走っている。自分が望んだ場所にこそいるはずだが、違和感が拭えない。それでも夜露を凌ぐ屋根が必要であり、飯が必要であり、金が要った。 家は潰れていた。荒ら屋に妻を一人残す訳にもいかぬ。古い伝手から運送トラックの運転手の職を紹介してもらった。頭を下げ、その仕事についた。 荷が届いていないという。梅雨に入った。ここは偶々の晴れ間である。倉庫の駐車場には北以外の車はなく、人影も見当たらなかった。雨上がりの熱気が息苦しい。そしてぼんやりと晴れている。 厭だ、と思った。ガキのようだがそう思った。 勤め人は向いていない。だが既に妻を娶り一家の長たれば、己の好き嫌いで物を言うことなどできない。鍵町の屋敷を売った金もいつかは尽きる。今の世の中に道場だけで身を立てることができるのはよほど稀有である。北も己の力量は理解している。 農家から届いた荷がようやく積み込まれ、北は改めて空を見遣った。薄ぼんやりした青空だった。夕にはそれでもまだ早かった。 「どうかね」 倉庫番の老爺が無遠慮に手を伸ばしラジオのツマミを回した。声が膨張する。局が変えられ、一瞬、歌謡の切れ端や笑い声が行き過ぎると天気予報を喋りだした。北は黙って幌をかけた。やがて降るのだろう。来るのが遅い。 畦道を走る頃、ようやく暮れの気配が空を染めるようになった。田植えの澄んだ水面に、空がそっくり映っている。隔てるものがないから街も近いように見える。が、行けども行けども田中の道である。段々に暮れる。北の心は少し落ち着く。 不意に視界をよぎった。横目に見た。一瞬のことであった。 案山子であったか、と思う。だがフロントガラスの向こうにはそんな影は一つもない。 これだから。北か顔を歪めた。これだから田舎は厭なのだ。薄らぼんやり明るい昼は厭なのだ。自分には見えるはずもないものが目の端を掠める。車を停めて振り返って見れば、そこには何もないはずであった。 気まぐれなんぞに付き合っていられるかと北はアクセルを踏んだ。荷がガタンと揺れた。 街はまだ明るい。雨雲は背後から追ってくるようである。降ればいいのだ、と北は思う。バックミラーに引っかけたお守りが目の端を掠めた。刺繍の桜花にも、だが北は目をくれない。この桜花があるからこそ、鏡には映っているかもしれぬ。雨雲を背に白い影が揺れているのだろう。馬鹿馬鹿しいことだった。妻は家にいるのだ。街に。街中の、人の営みの中に。 荷を下ろそうとしたところで雨が追いついた。難儀しながら下ろし、最後に車庫に車を戻す。エンジンを切ると耳の奥からラジオの歌声が消え、急に肌寒くなった。車庫の前に煙草の匂いは残っていたが人の姿はなかった。北はポケットから取り出したのに安いライターで火を点けた。飲み屋の名前が書かれている。社長と行った店だ。 暗い空の下、強い雨が打つ。白い影が揺れた。傘だった。 「さくらい」 雨の中、北が踏み出したので傘は慌てて駆け寄った。 「おい、濡れたろうが」 「北さんが飛び出したんじゃありませんか」 さくらいの額は僅かに濡れていた。強い雨は吹き込む。 「帰るぞ」 北は傘を握った。 |