初夜の翌朝の北とさくらい


「北さん」
 頭を枕に載せたまま、呟くようにさくらいが呼んだ。
「なんだ」
 眠りの底から声は蘇る。眸は閉じたままだ。手の甲で瞼の上を覆う。
「聞いてくれますか」
「なんだ…」
「私、筆谷さんになら殺されてもいいと思ってました」
 新婚の褥の、目覚めに聞く言葉ではなかった。北は手の隙間からさくらいを見た。長い髪が枕の上を流れる。黒い瞳が北を見つめる。
「死ぬことも怖ろしくない。いつ死ぬか分からず生きていくことが、私は怖い。だからこの町に来て、私、一年で死ぬと思っていました。筆谷さんが殺してくれるか、それとも…」
 さくらいは言い淀む。北にはさくらいは殺せまい。北自身思う。互いに刃を握った時、自分はさくらいに敵わない。
 言ってみろ、と思い横目に睨んだ。さくらいは逸らした眸を一度、軽く伏せた。
「溺れ死ぬかな、と」
 鍵町でも、ここから海は遠い。潮の香は届かない。
 北さん、と吐息を吐きさくらいの視線は筆谷のもとに戻った。掌を上に、手が弱々しく横たえられた。力無く、赤ん坊のようだった。
「私、北さんと一緒になら生きるのも怖くない」
 次の瞬きで眸の表面が柔らかく潤む。
「一生、命が潰えるまで、あなたにご一緒します」
 私、とさくらいは微笑んだが、震える唇も、涙を湛えた眸も、泣き出す寸前だった。
「もう、眠るのも、目覚めるのも、怖くありませんわ」
 北は手を伸ばしさくらいの頬にかかる髪を払った。さくらいが目蓋を閉じるとこぼれた涙が一筋、目尻から伝う。
 掌を重ね、しばらく黙って横たわっていた。陽が昇り、温泉通りの鍵町は騒がしかろうが、八十蔭に包まれた北の邸は静かであった。鳥の飛び立ち、梢が揺れる音さえ聞こえた。
「どこへでもか」
 さくらいは静かに返事をする。
「はい」
 朝食を摂る頃には、この町を出るのだなと分かっていた。
 北は洗い物の音のする台所へ声をかけ、一人で四六野の下宿に向かった。
「俺は髪結いじゃない」
 そう言いながらも四六野は器用に北の髪を切った。