北夫婦となる以前


 しん、と静まり返る。鍵町の夜には音がない。自分が父から受け継いだ着物の墨色のようにだ。深く闇に沈むが夜だ。
 さくらいの身体は闇に仄白く残像を描きふわりと覆い被さった。揺曳する湯上がりの熱が鼻に香る。肉体は重く、しっとりと濡れていた。命そのものを抱く心地だった。もたれかかる裸体は、その全てを北に委ねていた。
 腕を伸ばし腰を抱く。知ってはいた。女だ。細い。背中の稜線は滑らかで、安息の内に穏やかに上下していた。着物を越して伝わる鼓動は遅すぎるほどだった。
「さくらい」
 呼べばかすかに首が動く。濡れた髪が背中を滑る。追うように指をくぐらせ背骨をなぞった。
「今でも怖いのは嫌、か」
 張り詰めた少女の瞳が見つめた。
「怖いことを、なさるんですか」
 裸の腕が北の首を抱く。北の手は背骨からさくらいの首に辿り、ぐ、と強く掴んだ。
 私、とさくらいが囁いた。
「今なら殺されても文句言いませんから…」
 優しくしてくれと乞う言葉はなかった。十七歳の少女の身体は震えもせずただ投げ出され、北は手中にしたそれがさくらいの命の全てだと感じた。ずるずると肩から滑り落ちる身体を抱きとめ、掌で目を伏せさせる。その時、瞼を伏せたさくらいが微笑んだので、笑うな、と一言叱責する。
「え…」
 せっかく伏せた瞼が開き、互いに戸惑いのような視線を交わした。
 こめかみに唇を寄せる。さくらいが瞼を微かに震わせ、伏せる。細く吐く息。触れると熱い脈を感じた。血潮は激流となってさくらいの肌の下を奔る。
 北先輩、と囁くさくらいの手が肌蹴た胸に触れた。