弱ったさくらいと強気の北


 薄暗い影、葦簀の影の下。永い時の中で動かない影の静けさが身体に染む。少し肌寒いほどに涼しい静けさは湿り気を帯びている。葦簀の向こうは陽が照る。葦と葦の隙間は白く光って向こうにはどんな景色があるのか分からない。多分、裏庭があるはずなのに。さくらいは乱れた髪が顔にかかるのも払わず、寝返りを打ったままだらしなく横たわっていた。腹にかけたタオルがずり落ちる。
 月の満ち欠けとともに血の与える痛みは、そもそも重い。さくらいは初潮が遅かった。そのせいだろうか。分からない。医者にかかったことはない。あれが始まったのは鍵町に来て一年目の春だ。筆谷は驚いたけれども彼女のために赤飯を炊いてくれた。
 あの時、よく晴れた四月半ばのあの日、桜はもう終わって若葉の緑が眩しかった。風呂場の窓から見えたのは海の上に広がる果てない青空だった。潮騒と潮の香が心地よかった。さくらいは水色のタイルの上に佇んで冷たい水を浴びていた。排水孔に流れてゆく水が朱色を帯びていたとは覚えていない。
 これが来たから自分は結婚できる身分になったのだ、とさくらいは感じる。それまでの自分は人間でさえなかった。人の形を模倣した、生き物としても未完成な代物が自分だ、とさくらいは思う。あの日の自分は何と無邪気だったろう。筆谷の亡妻のワンピースを着て、焼けた堤防の上を裸足で歩き三人の男を振り返った。私、もう結婚できるんですよ。それは四月二日がやって来て自分が十七歳になったことを言ったのだけれど。(本当は鍵町にやって来た日、もう十六で結婚のできる齢だった。)その年の夏、北に嫁いだ。鍵町を出てここに住むようになった。自分の生まれた町からも育った町からも離れた町。
 あの頃も痛かった筈だ。あの頃から、だ。それなのに下腹の痛みに襲われると思いがけない痛みに出会ったかのようにさくらいの精神は揺れる。
 自分は子供が産めるのだ。
 その為の肉体を持っている。その為の器がこの中にはある。月の満ち欠けに従い血は柔らかな器を織りなす。さあいらっしゃい、と。肉体の奥に潜む生命の根源が笑みを浮かべ両手を広げ血のヴェールの襞から囁く。私は子供を作ることができるわ。
 痛みにさくらいは表情をなくす。器は粉々に破壊された。欠片は血となり流れ出る。肉の奥で命の囁く声。何故、駄目だったのかと。怨嗟の声はぶつぶつと流れ途切れることがない。だがさくらいは喜んで破壊の槌を振るっている。この血を永らえさせてなるものか。これ以上続けさせてなるものか。私は私の血縁をここで終わらせるのだ。人殺しの血などここで絶やしてやる。
 だから。
 襖の開く音にもさくらいは振り返らない。のしのしと重い足音は枕元で立ち止まり水と薬包を載せた盆を置いた。窓を開けると陽にぬくめられた空気が風となって吹き込む。湿った静けさが押し流され、部屋には涼しい風が通る。
「北さん」
 さくらいは夫の背中に声をかけた。
「葦簀をどけてください」
 彼はさくらいの言うとおりにした。葦の影と眩しい白光の向こうにある景色はあっさりとさくらいの前に姿を現した。裏庭と木陰を作る馬酔木。
「北さん」
 横たわったまま、さくらいは細い声を上げた。
「離縁してください」
 北は不機嫌そうに振り向き、沈黙する。さくらいは続ける。
「私が若くて愚かだったばっかりに…」
「若くて愚かで何だ」
 さくらいは涙ぐむ。
「代々から継いだ道場も捨てて、あなたは、私と鍵町を出て」
「あんな辛気くさい町にあれ以上いられたものか」
「でもわたし」
「俺がお前に、嫁に来いと言った」
「北さん、離縁してくださらないなら、せめて」
「外に女でも作れと言うか」
「はい」
「馬鹿が」
「でなければ北の家が絶えます」
「お前の家もだろう」
「津田は滅びました」
「北もいずれ滅ぶ」
「あなたに子供がいないなんてあんまりです」
「俺の女房はお前だろう」
「絶対に駄目」
「さくらい」
 明るい裏庭を背に、北が睨みつける。
「子を持たない俺は不幸か」
「可哀想です」
「俺はお前に嫁に来いと言った。俺は欲深だから欲しいものを何でも手に入れる。その挙げ句が不幸と呼ばれるとは俺はどれだけ惨めな男だ」
「だから離縁してください」
 ずん、と近づいた北が襟首を掴み上げ、それを覚悟する表情になる前に頬を張られた。
「…ぶってください」
 手の甲でもう反対を張られる。
「痛いとホッとします」
「嘘をつけ」
 痛みに耐えきれんでごろごろ芋虫のようにしてるんだろうが、と北は襟首を手放した。
 薬を飲む。さくらいは空のコップを頬にあて目を瞑る。
「少しは目が覚めたか」
「お水、もう一杯ください」
 北が片手に掴んだ水差しを傾けた。半分飲み干して、さくらいは顔を上げた。
「北先輩…」
 次の瞬間無闇に抱き締められ、手からこぼれたコップが畳の上に転がった。こぼれた水が畳を濡らす涼しい匂いが漂う。畳をざりざりと掻くさくらいの手を北は指を絡ませ封じ込めた。
 溜息が漏れた。涙ぐみ俯くさくらいの乱れた髪を北は払った。