何故、会わせてもらえなかったのでしょう
「北は、会わせたら私が田代さんと浮気をすると思ったんです。多分」 「僕が?」 自分の素っ頓狂な声を田代は久しぶりに聞いた。山本以外のことでここまで心を揺らされたのは久しぶりだ。さくらいはくすくすと笑う。 「北は田代さんのことを好いてますのよ」 「ちょっと待ってください」 「おかしな意味ではなくてね。田代さんが魅力のある人だと、北は誰よりも分かっているつもりなんです。傲慢な人だけど、いい男を捕まえる審美眼は大したものです。間違いがありません。それで欲深でしょう? 自慢はしたいけど、人に見せるのは惜しい。その上私は北の妻ですから。自分の気に入った男をね、自分の妻が気に入らない訳がないと北は考えるんです」 やれやれ…、と田代は溜息をついた。 「あなたを疑ってるんですか、北は」 「私の心を疑っているのではなくて、自分の好いたものを絶対的に信じているからこんなことになったんです」 でもこうしてお会いできましたから。さくらいは落ちてくる汗を手拭いで拭い、さっぱりした笑顔を浮かべた。 「しかも偏見なく、雑念もなく立ち合いさせていただきましたから」 感謝いたします、と紺色の道着から伸びる細い腕が差し出された。 「改めまして、北桜尉といいます。花の桜に能面の尉でさくらい」 「尉とは…。老人の面では」 「翁面です。姥とつけられるよりはずっといいですね」
昔話をしましょう
「私が賢しらな少女だった頃、私は筆谷さんと結婚すると思っていたんですよ」 今でも少女めいて見える北の細君はそう言ってにっこりと笑った。田代は、そう、と呟き指で顎を掻いた。 「筆谷先生なら、そうだな」 「驚かないんですの?」 「納得がいく」 「会ったばかりの頃筆谷さんは前の奥様を亡くされて書道教室を始めたばかりだったんです」 「あの教室を?」 「いいえ。鍵町という小さな町」 旧い町です、と繰り返すさくらいの瞳が急に凪の水面のように静まった。鉱物質の輝きが目交いの中に散る。賢しらな少女の面影とはこれだろうか。 「じゃあこっちには」 「私と北は結婚を機に越して参りましたの。筆谷さんはそれより後ですわ」 故郷の町を出た筆谷は教師になった。そこで出会ったのが山本だ。 「北の話では、幼い頃道場によく来ていたのが先生だそうです」 「少し聞いたことがあります。その鍵町で?」 「いいえ。北はお祖父様の道場を相続するまで鍵町には一度も足を踏み入れたことはありませんでしたから」 「…複雑な関係ですね」 「面白いでしょう? もっと面白いお話しがあります。幼い北さんは毎度先生にこてんぱんにされたそうです」
夫としては気が気ではないのだった
「四六野聞いてくれ。俺の嫁と俺の親友が」 「一つ訂正するぜ、北。さくらいは嫁かもしれないけど、筆谷はおまえの親友じゃなくて俺の親友だ」 「喧嘩売ってるのか」 「それぞれ右手と左手を掴んで引っ張ってみるかい? あいつはするっと逃げてさくらいの肩を抱くさ」 「さくらいは俺の家内だ」 「ところで北、俺も今度そっちに行くよ。呑まないか」 「人の話を聞いているのか?」 「聞いているけど、電話じゃ埒があかない。俺は自分でも意外なんだが、お前とはゆっくり話したいと常々考えるんだ」 「奇遇だな」 「お前もか」 「酒はお前が選べ」 「日本酒? 焼酎?」 「前者」 「分かった。任されよう」 受話器を置き、北は高揚する気持ちと喋りすぎた感とに溜息をついた。道場の縁側には、さくらいが持ち帰った干し柿が新聞紙に包まれて置いてある。
2014.3〜4月
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