展示会の北夫妻


「ねえ、北さん」
 桜尉はぎゅっと北の腕を抱き締めて引き留めた。
「帰るぞ」
「もうちょっとだけ。良いでしょう?」
 不機嫌を隠さない眼差しが頭上から降るが、桜尉は抱き締める手に更に力を込めて微笑した。
「だってもう少し見ていたいんですもの。ね、北さん」
 ご自慢の後輩殿じゃないですか、と囁くと、自慢でもねえ不肖の後輩にも程があるぜ、と北は渋々その場に留まった。
 お堀の内は高い建物はないが樹が繁る。だがこの日の夕焼けは赤く、展示場に差す陽の茜色もやけに熟れて、並ぶ書から立ち昇る魂の陽炎さえ見えるようなぬくさだった。しかしコートを羽織った北は妻の腕を解かなかった。桜尉は夫の腕をしっかり抱いたまま目の前の一対の書に魅入っていた。それは対として出されたものではなかったけれども、筆谷はそのように並べたし書を書いた者たちもさも当然であると黙っていたし、また何を知らず見る者もこれを対であると思ったに違いない。
 桜尉は短冊にこれを書いた者の姿を見た。浮世から遠く離れた苔むした道が伸びる。頭上には花と、遥か天の白雲と。文字は文字であり、文字ならず。魂の香気は春の香りだ。
「桜を」
 彼の妻は己の名前にもある花の名を口にした。
「見に行きたいです」
「もう散ったろう」
「海のそばはきっとまだ残ってますわ」
 私、桜が見たくなった、と少女のままの口ぶりで桜尉は言った。
「でなければこの方に会わせてくださいまし」
 目を細め、桜尉は夫の顔を見上げる。
「この、つらもと、とおっしゃる方に、私、お会いしてみたいわ」
 北がへの字口になると、山本先生をご紹介される前もそういう顔をなさったわね、とからかう。だが、腕は振り解かない。








2014.3〜4月