北夫妻の食卓


「ないわー」
「あらそんなことおっしゃるの」
「ねえだろ」
「縁は異なものですよ。それよりね北さん、私が驚いたのはあなたの口調よ」
「俺が何を言った」
「ないわー」
 桜尉が真似てみせると北は渋面を作り味噌汁をかきこむ。まだ器に残る浅蜊貝がかちゃかちゃと音を立てる。
「いけませんか。山本先生だってずっと目をかけてこられた方ですわ。おかしいことはないじゃあありませんか」
「おかしいだろう」
「何故」
「男同士だ」
「またそれをおっしゃるの」
 少し呆れた声を上げ、桜尉は茶碗を置いて居ずまいを正した。
「北さんだって若い頃は筆谷さんと四六野さんに酷くご執心だったじゃない」
「他に娯楽もなかったからな」
「私にお灸をすえること以外にね」
 北はじろりと自分の妻を見たが、妻の方はまるで気にも懸けず。沈黙の睨み合いが続く。
「私、嫌だから言ってるんじゃないの。北さん」
 ようよう口を開いた桜尉は少女の頃の張り詰めた瞳で北を見た。
「北さんがよく私をお嫁にしてくださったって、私、今でも不思議なんです」
「俺はまだ生娘だったお前の裸を見た」
「筆谷さんだって見たわ」
 そのまま俯きじっとしていた桜尉が不意に立ち上がる。片付けますと一言。北はそれを留めて自分の隣に座るように言った。しかし桜尉はその言葉に従わず畳のへりに佇む。
「嫌です」
 娘のままの声が呼んだ。
「北さんがいらして」
 北は手にしたままだった器を卓に置いた。汁に溺れた浅蜊貝が半分ほどその姿を現していた。
 外は強い風が吹く。春嵐の夜はさわがしく、吐息がいっそ静かだ。
「片付けます」
 桜尉がもう一度言った。




膝枕


「本当はもう許してらっしゃるくせに」
 湯上がりの心地良さのままに桜尉はころんと転がって北の膝に首を載せた。
「北さんは素直じゃないんですから」
「女脈よりマシだろう」
 それを聞いた桜尉は笑いながら北の手を取り、さてどうでしょう、と脈を取る。
「私ね」
 桜尉は瞼を閉じ指先から伝わる北の脈に耳を傾けながら囁いた。
「田代さんは男の方だからよかったんだと思うわ。だからあんなに清らかに真っ直ぐに、雪解けの水が走るみたいにね、山本先生を想われたのだと思うの」
「男のそれは欲だぞ」
「山本先生だってそれに文句をおっしゃった訳じゃないでしょう。北さん、女に欲はないとお思い?」
「あるのか」
 桜尉は北の手を引き寄せて指先を噛む。
「北さん」
 瞼が開き、桜尉は暗いガラス戸の向こうを見つめた。
「五年の片恋ってどんなものでしょうね」
「片恋だったと思うのか」
「……まあ」
 強い風に流されて、雨が掠めるのに雲の切れ間から月も覗く。何ともあやしい夜だ。
「ただならぬとはこのことですね」
 桜尉は北と繋いだ手をぼとりと畳の上に落とし、ぬくい息を吐いた。




2014.3〜4月