出奔中の筆谷と巻き込まれた北


 郊外の道は暗い。灯りなどはない。人家もない。雨さえ闇に溶けて、無常な礫がただ叩く音ばかり恐ろしげに響いている。どこへ続く道だろうかと北は考えた。分かって走って来て尚、この道に辿り着く先などないような心地がした。心を掠めた心細さに、北は思わず鼻の頭へ皺を寄せた。幼い頃、ほんの幼い頃、死を思った夜に似ていた。死は常に恐怖の対象だが、心細さを思春期以降の北は意志で捻じ伏せてきた。今こそが全てだ。今、俺は生きている。他のことなど知ったことか。だがトラックの運転席で雨音からも冷たい雨粒からも隔てられじっと座っていると、隔絶されたことへの恐ろしさが幼い心細さを引き摺り出した。北はドアを開けた。
 傘を雨が叩く。激しい勢いで叩く。雨音は北の全身を叩いた。跳ねた泥水が足元を濡らした。北は雨夜の一部となる。だが雨そのものではない。異物である。異物は闇の中に目を凝らした。雨に溶けた暗闇の中、ぼんやりと白いものが浮かび上がった。
 ずぶ濡れの男がバス停のベンチに座っていた。前屈みになり、しかし首を持ち上げてじっと目の前を見つめている。道を隔てた向こうは茫々たる原である。ずっと先に海がある。姿は見えない。暗夜でなくとも見えない。防波堤のコンクリートに邪魔をされ、よじ登らなければ見えない。まして暗夜である。灰色の壁さえ見えなかった。
 男の目は眼鏡の奥で陰火のように燃えていた。内に宿した青白い炎がちらちらと眼底から覗き、男の周囲に降る雨は時折火花のように光った。鬼とは己のことであると北は自負している。だから、痩鬼であるかと思う。さしもの北も目の前の男を人間と呼ぶことはできなかった。尋常ななりではなかった。
 これだ。尋常ではないのだ。北は筆谷を存じている。少なくともそのつもりである。筆谷が何者であるか、その本性を知る数少ない人間の一人が北である。顎をついた手は煙草を挟んでいた。火が点いているはずもない。しかし男が唇をつければ途端に燃え出すと思われた。紫煙を吐けば雨も燃えるだろう。ぼとぼとと音を立てて落ちる青白い火を北は幻視した。幻を見ざるともすぐ目の前に立ち上がる光景かと思われた。ほら、唇をつけた。
 しかし煙草は燃えず、筆谷はそれを唇にくわえてだらりと両腕を下した。首はぐるりと北を見上げた。
「遅いぞ」
「待っていたのか」
「待つ腹で呼んだんだ。なのに待たせやがって…」
「迎えにこさせておいてその言い種か」
「お前を選んでやったんだぞ」
 偉そうに。北は胸の内で力ない舌打ちをし、筆谷に傘をさしかけた。あっという間に背が濡れる。筆谷は内ポケットを探ったが煙草は湿気ていた。北が自分の胸ポケットに収まったそれを差し出すと濡れた指が一本抓み出す。ライターはなかなか点かなかった。青白い火花が何度か儚く消えた後、ようやく細い橙色の炎が立ち上がった。心細く揺れるそれは煙草の先に誘われるように触れ、赤い熾となった。筆谷はふぅっと細く長く呪文のように煙を吐いた。雨にシャツの張り付いた背中へぞぞ、と鳥肌が立った。
 二人はトラックに乗り込んだ。北も頭から濡れた。半分怒って、半ば投げ遣りで乱暴にドアを閉めた。街へは向かわなかった。国道を東へ走った。ジャンクションの下で、もういい、と筆谷が言った。
「帰らないのか」
「おまえがそんななりで来るからだ」
「何が不満なんだ」
「トラックなんかで来るからだ」
「仕方ねえだろう」
「黒八丈を売ったこと、今でも後悔しているだろう」
「してねえよ」
「嘘を」
 柔い笑みが紫煙を吐いた。横顔は立ち並ぶ倉庫の常夜灯に照らされて白かった。
 黒八丈で迎えに来れば俺のものになったかよ。北は呟かなかった。今でも筆谷に執着がないとは言わない。でなければ迎えになど来ない。それでも時代は違うのだと…。
 筆谷の目がじっとこちらを見つめていた。剣呑であると思った。背中がまたぞぞと音を立てた。時代など構わず筆谷の手は北の臓腑を掴む。
「…俺を試したのか」
「さくらいを呼んだらおまえが妬くだろう?」
 手を伸ばした時には筆谷の身体は道路に飛び降りていた。残念だな、と振り向きざまに笑った。
「全く残念な男だ」
「貴様より甲斐性があるぞ」
「だからおまえを呼んだのさ」
 筆谷の姿はあっという間に明かりの下から消えた。ぞんざいに開いたままの助手席から低く唸るエンジンの音が一際大きく身体を震わせた。馬鹿野郎め!と闇に向かって叫んだ。要らぬ一言だとは思いつつ、引き摺り出された懐かしい若さが叫ばずにはおれなかった。
 国道を引き返す。煙草はあっという間に短くなる。指がハンドルを叩く。女を抱きたかった。妻を思い出した。筆谷と似た目の色をした自分の女は今頃独り雨戸の奥に眠っている。