筆谷のラブレター


「君の身体にラブレターを書いてもいい?」
 澄子は深い呼吸に胸を上下させながら真上から見下ろす婚約者の笑顔を観た。筆谷の目は子供のように無邪気に輝き、眼鏡がない分幼く見えた。
「ラブレターを、くれるの?」
「うん」
「いいわ」
 小さく喜びの声を上げ、筆谷は布団から抜け出す。暗がりから鼻歌まで聞こえた。まったく、突然何を言い出すのやら。
 筆に硯にと手に戻って来た筆谷は枕元に正座し、墨を擦る。素っ裸の男の、たった今まで自分を抱いていた男の肉体を、澄子はじっくり眺めた。この人が墨を擦る時、服の下で腕は、背は、筋肉は骨は、彼の身体はこのように動いていたのだ。
 布団を払い、真っ直ぐに身体を伸ばす。
「腕は上げて」
 乞われるままに腕を頭の上に持ち上げる。乳房の形を気にしたが筆谷はまさしくその上に触れて、いいよ、と言った。
「さて」
 筆にたっぷりと墨を含ませ、構える。
「何と書こうかな」
「決めていなかったの?」
「愛してるだけじゃつまらないだろう」
「昔の和歌を引用するとか」
「よく知らないんだ」
 筆の先が胸に落ちた。男はほとんど眼を閉じるほどに目を細めて筆を走らせる。唇がかすかに動き、歌を囁く。
「君の腕で、永遠にぼくを抱いてください」
 同じ言葉を、肌の上に奔る墨が歌う。
「地が割れ、天が落ち、世界が終わる時も、君への愛に満たされているからぼくは平気だ」
 私もよ、と心の中で呟く。
「君が死ぬ時も、君がぼくを置き去りにすると言っても、ぼくは君と共に行く」
 不意に澄子は気づいた。筆谷は泣いているのかもしれない。
「何もない世界に、ぼくらの愛だけがある」
「温」
「ぼくはそれを全て君に捧げます」
 目蓋を大きく開いた筆谷はやはり子供のように笑っていた。
「丹宮澄子様」
 筆谷温という署名は下腹に至った。
「温」
 来て、と澄子は両腕を伸ばした。抱きしめると肌の間で墨が滲む。それから胸元もだ。
「ずっとね」
「うん」
 短く返事をする筆谷が泣いているのかどうか澄子は確かめなかった。筆谷の息は子供のように熱い。澄子は腕に力を込める。