展覧会前の筆谷とさくらい


 筆谷さぁん、と空へ明るく抜ける声に顔を上げるとさくらいが風呂敷包みを抱えて門から入ってきたところだった。
「久しぶりだ。どうしたの」
「もうすぐ春の作品展だって筆谷さんが教えてくれたのに。忘れたの?」
 さくらいは玄関で靴を脱ぐと、土間の空気をすうっと胸に吸い込んだ。三和土には数冊の本が積まれている。廊下にもだ。土間にはまだ朝の冷たい空気が残っているのと、そこへ懐かしい古い本の匂いが漂っている。外からやって来た者にはすぐ分かる。
 板間に長机を出しながら、さくらいは時計を見上げた。
「例のお人はまだ?」
「誰」
「誰、じゃないわ。例の通い妻さん」
 これは最初にさくらいの言った言葉ではなく、北が自分の細君に話して聞かせる際に用いた言葉だった。