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筆谷と先生の出会い


 ぬるくて、静かだ。
 自分の息ばかり大きく聞こえるようで筆谷は唇を閉じ、溜まった唾を飲み込んだ。中二階からの階段を急ぎ足で上る。建物の天井は低く、明かりは古い。いつもは薄暗く感じる電灯が今日はやけに眩しかった。こめかみ付近を手で押さえる。これは痛みではないはずだ。頭痛は薬と煙草で押さえつけてここまで走ってきた。閉館間際の図書館は、しかしまだ人の気配が多くあった。
 三月である。早いところでは桜の便りが聞かれる。市内はまだだ。ここに来るまでも風は冷たく、街灯の下では息が白く見えた。だが焦りすぎた。身体が熱い。暖房にぬくめられた屋内の空気に包まれてからはいっそう息が詰まる。筆谷は歩調を抑えながらコートを脱ぎ、奥の棚へ急いだ。
 全集や叢書を並べた棚は他より人が少なく、温度も低いように感ぜられる。それでも汗は引かない。筆谷は本棚の影に入ると一度足を止め息を整えた。図書館でこんな焦り心地になるのは趣味ではなかった。煩雑な思考のまま本棚の間を歩く自分に苛立つ。俺は自分のすべきことをして、したいことをしているのだと考えても、病院を出た時間の遅さが悔やまれてならなかった。が、故に悔やむ己の首を締め上げたくもなった。病院では何をしていた。妻と共にいたのだ。余命幾ばくもない妻と最後の時間を過ごしているのに、それを悔いるだと?
 頭の奥の痛みはいつからあるだろう。薬で弱められたのか、痛みの記憶のみか。左手で背表紙を撫でる。近世文学のシリーズは深い碧色をしていた。それが経年で褪せている。堀の水の碧だ、と思う。
 ちょうど探していたタイトルの分だけ、本棚はすっぽりと抜けていた。筆谷は一度棚の最後まで見て、もう一度タイトルの抜けた場所に戻った。本の抜けた隙間からは向こうの本棚が見えた。
 虚無を見つめ佇んでいると頭上で小さく閉館の音楽が流れ始める。影の中で腕時計を見る。閉館の十五分前だった。
 同じタイミングで同じタイトルを欲する人間がいたのだ、と納得した。諦めざるを得ない。ない本を出せとは言えない。自分の首を絞めたくなる悔しさやここまでの道のりを走ったこと襟首の汗の不快さ、どれも虚無に呑まれた。本一冊分の空隙が全てを呑み込み、ようやくいつもの図書館の床を踏んでいる気になった。気まぐれに万葉集を手に取ってカウンターへ向かった。同じ本を持っているのに。
 貸出カウンターは座る人間に合わせてあり、些か低い。皆、その前に立つと背中が丸まるものだが、しゃんと立っている男がいた。初老、か。筆谷は遠くから回り込みながらゆっくりと男の後ろ姿を眺める。髪は灰色だが、いや待て思ったほど歳を取っているのではないらしい。しゃんとした姿勢であるし一見がっしりした体格に見えるが、さて、要所要所に垣間見える華奢さ。筆谷が見つめたのは本を受け取る手元だった。ああ、手首が、と思った。そして男が手にしたのが自分の探していた本だと気づいた。
 隣に並び、本を差し出す。男がこちらを見る。二人で、あ、と。間抜けな声は上げなかったけれども同じような表情をした。男の顔からはすぐに驚きは消え、筆谷は微笑を浮かべた。
「先日ご挨拶しました」
「筆谷先生、でしたな」
「筆谷です。山本先生?」
「社会科の」
「こんなところでお目にかかるとは奇遇ですね」
 男とは先日さらりと挨拶を交わしたばかりだった。四月からの筆谷の異動先である小城の高校の、周囲曰く古株。
「資料ですか」
 タイトルを見下ろす。
「そちらも」
「私のは…まあ趣味ですか」
 貸出カードを差し出しながら言った。山本は隣で待っている。話すのか、と思う。別に構わないが。閉館の音楽に背を押されるように建物を出た。駐車場の手前灰皿があったので立ち止まった。山本も同じタイミングで立ち止まったので驚いた。相手は合わせたのではないらしかった。慣れた手つきが懐から煙草を取り出す。筆谷も本を怖きに挟み、煙草をくわえた。山本は火を点けるのにマッチを使った。柔らかな炎が掌の囲いの中で揺れる。箱には象の絵が描かれている。白い象。
「お探しでしたかな」
 唐突に山本が言って、軽く本を掲げた。心を読まれたか、と思った。敢えて素直に「実は」と答えた。
「本棚を出たところですれ違った」
 言われたが気づいていなかった。
「いいえ、もう」
 執着するものでなし、と呟く。
「万物が流転するのは永遠の理ですから」
 妙なことを言っているとは思う。この春から同じ学校で働く相手に。まだ知らぬ相手にだ。こんな言葉は旧い友人にしか使わぬものなのに。山本は短く笑った。必要な箇所をコピーしようかと言う。確かに授業で使いたかったものだが、今は本棚の隙間を目にするまでの思い詰めた気持ちがおかしくて、どうして妻と慌ただしく別れここまでの道のりを走ってきたのだろう、どうして最後の授業で絶対いこれが必要だなどと思ったのだろうという気だったから、いいえ授業の内容は今変えました、と答えた。
「では後学のためにお聞かせ願おう」
 山本は言う。ならば、とその中に収められている和歌の読み手数人を挙げた。
 図書館の前には橋がかかっている。渡りきったところで別れた。互いに家は市内にある。夕飯がまだなのだと山本は言った。
「家内に叱られる」
 筆谷は一人の家に帰った。元々は妻の家だ。机も隅に片付けてがらんと広い教室の板間に腰を下ろし、筆谷は小城に単身赴任する考えを捨てた。ここに帰ってこようと決めた。
 翌月、小城の高校で自分に用意された机の上には本のコピーが載っていた。山本には改めて挨拶に行った。社会科準備室の一角、積まれた解答用紙を押さえているものは万葉集だった。何故だかそれを嬉しいと思う気持ちを、筆谷は我ながら不思議に思ったことだ。目を細め、まだ明るみの残る空を見遣る。灰皿を挟んで山本がポケットを叩く。火がないようだ。マッチを擦って差し出した。
「今日は風がないから、あたたかい」
 筆谷は一振りして消えたマッチを灰皿に落とす。駐車場の向こうには陽気がゆらゆらと漂う。
「しかしよく会うな」
 山本が褪せた碧色の本を掲げる。
「本当ですね」
 筆谷は微笑し、小脇に挟んだ同じ装幀の本を揺らしてみせた。




筆谷が学校の先生を辞めること


「探している本が見つからない時、会いたい友達がいます」
「親友か」
「親友です」
 暗算が速く、朗読がとても綺麗な男です。筆谷は褒めた。
 窓の外は青くなり始めていた。二人で表に出た。灰皿の前は、今日は通り過ぎた。
「送りますよ」
 筆谷はバンの助手席側を促した。
「悪いな」
「今日は寒いですから」
 日が落ちると急に冷える。日射しも嘘であったかのようだ。青い景色の中空気は凍てた冬を思い出すかのごとく、温度を下げる。
 山本が助手席に乗り込むと、夕方の匂いの名残に人の匂いがまじる。自分一人では気づかぬ匂いだ。
「本当に辞めるのか」
 走り出したところで山本が尋ねた。
「止めますか?」
「止めやせんが」
「辞めるも辞めないも強い意志ではないんです。男一人食っていくだけならば教室だけでも足る」
 自分から語り出したことだが、筆谷は口を噤んだ。言葉がうわべを滑るような心地だった。妻の教室を守りたいと言おうとしたがそれもまた舌に載らなかった。
「自分が、いつ死ぬのであれ」
 喋り出した筆谷の顔から笑みは消えていた。が、彼は言葉を続けた。
「自分のいたい場所にいようと思いました。いずれ死ぬので」
「人生の核心を突いたな」
「私は最初の妻に、彼女が死ぬまで一度も笑いかけたことがなかった。今度は笑ってばかりで、しかし本当に安心させてやれたろうか。報いられたい罰せられたいと思ったが、今は、あの人のそばにいたい。だから職場に通う時間も惜しい」
 もうどうしたって辞めます、と強い口調ではないものの曲げられぬ真実を話すように筆谷は口にした。
 後はおよそ無言の帰路だった。家につくと山本が上がっていくように言った。社交辞令であれ、と思ったが「なに、酒は出さん」という言葉に本当にお茶を御馳走になろうと思った。
 山本が自分でも和歌を詠むと知ったのはその時であった。追悼の歌をもらった。筆谷はそれを教室には飾らず、その夜は茶の間の、妻の写真の隣に立てかけた。しばらくすると涙が出てきた。泣きながら心の中で許してくださいと呟き妻を想った。
「ごめん、こんな俺で」
 写真の中の女は、彼女の書く文字のようにたっぷりと黒い髪を風に揺らしこちらを見つめている。








2014.3~4月