犬が吠える蝉が鳴く九月




 道路が乾き、雨の匂いも遠ざかる。夕刻には少し早い午後だった。
 帰路の、住宅街に入る手前の、店の数が少なくなって妙に寂しくなる通り、犬の吠える声が響いた。田代は振り返る。黒い犬が吠えている。
 この通りを歩く時はいつもだ。銭湯裏の家で飼われているのが、時々木戸の破れたところを抜けて通りまで出てくる。そのたびに田代は吠えられる。しかし動じることはない。吠えるだけで、この犬は噛みはしない。今日も離れた場所から吠えている。
 先日までまだ蝉の声が盛んだったが、台風が通り過ぎ急に静かになった。暦の上では秋だったが、ようやくそれが来たような心地だった。半袖から除く腕は汗と日射しに不快に焼かれるのではなく風に晒され乾いている。
 犬が吠えるのを止めた。田代の姿が遠ざかったからだ。
 シャッターの多い通りだ。それだけでも寂しいのに、先の台風のせいで街路樹の葉がみな落ちてしまいいよいよ侘びしい。葉はただ落ちたのではない、枯れて落ちたのだ。暴風に根元から揺さぶられた木が立ち枯れて葉を落としてしまったものだった。
 急に秋が来た。新学期が始まってからは夏を惜しむより早く秋が来ないかと待ち望んでいたが、不意に寂しくなった。
 足を速める。小さな交差点を渡るとそこはもう住宅ばかりで車の音さえ遠ざかる。塀の向こうから蝉の声が聞こえた。静かだ。
 玄関には姉のヒールが並んでいたが、おそらく家にはいまい。ただいま、と敷居を跨ぐと奥から母の声が応えた。
「陣基」
 台所から顔を出した母は袖を捲っていた。
「姉さんはもう行きましたか」
「もう早くに行きました」
「僕も行ってきます」
「お茶を淹れたから、藤子さんの水筒を持っていってちょうだい」
「分かりました」
 自分の部屋に鞄を置いて、リュックに道着を詰めた。それから母に手渡された水筒を二本。
「いってらっしゃい」
 玄関で見送る母はもう袖を戻している。
「いってきます」
 剣道場までの道のり、白壁の続く路がある。庭木の陰が濃い。蝉の声だ。まだ夏が残っている。誰ともすれ違わない。犬猫の姿もない。幻のようだな、と思いながら通り過ぎた曲がり角の先、誰かの姿を見たようでぎょっとした。田代は立ち止まり、踵を返そうとした。
 蝉の声が降る。つくつく法師の声が右から左からも聞こえる。
 田代は急につんとした態度でその場を立ち去った。角の先には確かに誰かいたのかもしれなかった。しかしそれは自分の求める影ではないはずだった。
 道場は神社の隣の大きな家だった。家そのものは田代の家が旧い。しかしここは大きい。石垣の組まれた短い坂を登る半ばでは、もう竹刀の音が聞こえた。戸は開け放されているのだろう。松の影の下を通りながら、田代は少し顔を上げた。蝉の声が聞こえなかった。またバシンと厳しい音がした。現実的で良い、と田代は背筋を伸ばし門をくぐった。



2014.7.3