家族


「おかえり」
 明るい陽が射したようだった。目蓋の上から眩しかった。田代はゆっくりと手をどけた。庭に立つ人影が自分を見下ろしていた。その姿は自分に似ていた。自分だろうか。
 起き上がると緑深い庭の庭石の苔の匂いや、もうそれほど鮮やかではない、しかし久しぶりにかぐ松の香りに生まれ育った家の懐かしさが湧き上がる。
 手で日射しを遮りながら顔を上げた。姉がじっと見下ろしていた。田代は返事をしなかった。姉は兄弟らしい無遠慮さでまじまじと弟の顔を見た。その目が姉らしい、彼ら兄弟の長らしい少々高圧的に吊り上がった眦から、パッと何かに気づく、そして見開いた瞳の表面が遠い記憶の日のように一瞬にして潤むのを田代は見た。
 眦から零れることのない涙は内側から姉の表情を溶かした。見合わせた顔が姉と弟のそれではなく、兄さんの妹と弟だった頃の親しみにぎこちなく歪んだ。
「いい面構えで帰って来たじゃない」
 目を細めると涙が雫になってしまうから目は見開いたまま、ふと目を移すと口紅の色が思ったより明るいのや、口元に浮かんだ皺が目に付いた。田代は目を伏せて呟いた。
「ひどいや姉さん」
「褒めてる」
 姉は隣に腰掛けた。縁側から見る景色は子供時代の記憶をそのまま写したかのようだった。
「この前は、来てくれるとは思わなかった」
 言いながら、田代は自分の口の端が緩く綻んでいるのに気づいた。
「嬉しかったという言い方は妙だけど、でも来てくれて…」
「無理をするな」
 言葉を遮る姉の声も震えを堪えていた。
「私は陣基が家族を忘れてないことに吃驚した」
「落ちこぼれで申し訳ないけど…」
「帰ってくるとは思わなかった」
 姉は一度言葉を飲み込み、低く吐き出した。
「もう帰ってこないだろうと、私なんか覚悟した」
「僕が、帰らない?」
「この前のお前を見たら…。父さんと母さんもそう思った。千歳も。帰ってくるって笑ったのは光信だけだ。この家族不幸者」
「ごめん」
「まあいい。……しばらくは家にいるんだね」
「うん」
「よろしい」
 抱えた思いはすらすらと言葉になる訳ではなく、言葉にしなかったもの、表に現れなかったものがぎゅっと固める拳になった。沈黙が続き、出し抜けに姉は立ち上がった。
「姉さん」
 顔つきは似ていない兄弟である。しかし立ち姿や、ひょんな時に作る表情が似ていると、道場では言われたものだった。姉の後ろ姿は毅然としていた。兄に似ていると田代は思っていた。午後の陽の下、昔と変わらぬ庭で、似ていると言われた後ろ姿の姉と通う心を感じた。躊躇いを乗り越え、田代は口にした。
「ただいま」
 弾かれるように姉が駆け出し、後ろ姿は表に消えた。
「泣かせてしまった」
 独り言は懐かしい庭に落ちて、まだしばらくそこに転がっているように感じた。
 日暮れ前に千歳が帰宅して、男前になったと噂の顔、を見に来た。
「苦み走って…」
 と言いながら、それを否とせぬ母は夕食を前にわざわざ縁側まで茶を出しに来てくれた。光信が帰ってきたのは日が暮れてからで座敷の向こうから「兄ちゃん、ご飯だよ」と年甲斐もない無邪気な声を響かせた。夕食の席で父を正面に、家族に向かって「ただいま帰りました」と頭を下げた。
 帰宅、である。祝いではない。だが卓にはきんとんが出された。姉がこしらえた、とのことだった。